薬師寺の誓約
永禄七年四月。
春の陽光が大和を照らし、薬師寺の白壁には柔らかな光が差していた。
越後より届けられた報は、京にも大きな驚きを与えていた。
上杉謙信率いる越後勢と、小田家上野衆は越中一向一揆を鎮圧すると、その勢いのまま能登へ兵を進めた。
さらに加賀でも、結城朝基の巧みな調略によって各地の豪族が相次いで降伏し、越後勢の武勇も加わって戦は快進撃となった。
しかし、その戦勝報の末尾には一つの問いが記されていた。
『武装解除した一向門徒、多数あり。これをいかに処すべきか。御屋形様の御裁断を請う。』
氏治はただちに筒井順慶と協議した。
「皆殺しにすれば、恨みは子や孫へ続く。」
「しかし帰せば、また兵となろう。」
順慶も静かに頷いた。
「ならば奈良に受け入れてはいかがでしょう。」
「本願寺にも近く、監督もできます。」
氏治はしばらく考えた末、決断した。
「武装を解いた者は奈良へ移す。」
「再び武器を取らぬ限り、その命は守ろう。」
その裁定は越後へ送られ、ほどなくして奈良にも伝えられた。
その数日後。
佐野昌綱のもとへ二通の書状が届く。
一通は筒井順慶。
もう一通は本願寺・下間頼廉。
内容は同じだった。
「薬師寺にて、門徒の処遇について協議したい。」
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約束の日。
薬師寺の客殿には五人が集まっていた。
本願寺から下間頼廉と、その補佐として下間一族の僧が一人。
大和から筒井順慶。
そして小田方から佐野昌綱。
その後ろには、墨染めの法衣をまとった老僧が静かに座していた。
空蝉である。
今日も一言も口を開かず、膝には古びた琵琶を抱えていた。
頼廉が静かに合掌する。
「まずは礼を申し上げます。」
「武装解除した門徒を討たず、受け入れてくださる御英断、本願寺として深く感謝申し上げます。」
佐野は首を横に振った。
「礼には及びません。」
「民を救うことも武家の務めです。」
順慶がゆっくりと口を開いた。
「しかし、一つ懸念がございます。」
「奈良市中へ、そのまま住まわせれば争いになりましょう。」
「南都には古くからの寺社もあれば町人もおります。」
「土地も仕事も限られております。」
「小さな諍いが、やがて大きな騒乱になるやもしれませぬ。」
頼廉も深く頷いた。
「もっともなご懸念です。」
客殿は静まり返った。
佐野はしばらく庭を眺め、静かに口を開く。
「順慶殿。」
「奈良は広うございます。」
「市中だけが奈良ではありません。」
順慶が顔を上げた。
「山を開きましょう。」
「山……。」
「空いている山々に岩窟寺院を築くのです。」
「岩を穿ち、堂を設け、畑を開く。」
「武器ではなく鍬を持ち、祈りと労働で暮らす。」
「市中とは適度な距離を保ちながら、自ら里を築けばよい。」
順慶は思わず息を呑んだ。
「なるほど……。」
「それならば市中との摩擦も少ない。」
頼廉も深く頷く。
「実に良いお考えです。」
「本願寺からも穏健な僧を送り、教えと規律を守らせたいと思います。」
しかし、その表情はすぐに曇る。
「ただ……。」
「今の石山はあまりにもきな臭い。」
「誰を送り出すべきか、慎重に選ばねばなりませぬ。」
「しばし、お時間をいただけますでしょうか。」
その時だった。
──ぽろん。
静かな琵琶の音が客殿へ流れた。
皆の視線が自然と老僧へ向く。
これまで一言も話さなかった空蝉が、ゆっくりと顔を上げた。
「……下間殿。」
静かな声だった。
頼廉は姿勢を正す。
「はい。」
「敦賀に、わしの古い縁がございます。」
客殿が静まる。
「気比の社にも、北陸の寺々にも、昔世話になった僧がおります。」
空蝉は琵琶へ静かに手を添えた。
「下間殿は、ごゆるりと送り出すお方をお決めくだされ。」
「その間、わしは敦賀へ参りましょう。」
「北陸の穏健派へ声を掛けてまいります。」
頼廉は驚きを隠せなかった。
「そのような伝手をお持ちでしたか。」
空蝉は微かに笑う。
「老いぼれは旅だけは長うございました。」
「人との縁だけは、まだ残っております。」
順慶も安堵の息をついた。
「それならば急ぐ必要もありませんな。」
佐野は師を見つめ、静かに頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。」
空蝉は再び口を閉ざした。
──ぽろん。
琵琶が一音だけ響く。
頼廉はその音を聞きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「では本願寺も、穏健な高僧を選びましょう。」
「敦賀で合流し、ともに奈良へ迎え入れることといたします。」
佐野も立ち上がる。
「武を捨てた者には、生きる道を。」
「それが、この乱世を終わらせる第一歩になると信じます。」
五人は静かに合掌した。
薬師寺には春風が吹き抜け、桜の花びらが客殿の庭へ舞い落ちる。
この日交わされた約束は、後に**「奈良移住策」**と呼ばれることとなる。
武装を解いた門徒が岩窟寺院で祈りと労働に生きるという、新たな道は、この薬師寺の静かな客殿から始まったのであった。




