法隆寺の盟約
永禄七年四月。
春風が斑鳩の里を渡り、法隆寺の五重塔を静かに撫でていた。
東大寺での会談から一か月。
篠原長房から届いた文には、ただ一行だけ記されていた。
「次は法隆寺にて、お待ち申し上げる。」
東大寺で続けて会うことは、人目につきすぎる。
佐野昌綱も、その判断はもっともだと思っていた。
しかし、今回は違う。
篠原長房。
一色藤長。
さらに、もう一人。
三人を相手に、自分一人では不用意である。
だからといって、大勢の供を連れて行けば密談ではなくなってしまう。
佐野が選んだのは、一人だけだった。
法隆寺の山門前。
そこには、墨染めの法衣をまとった一人の老僧が立っていた。
旅装ではあるが衣は清らかに整えられ、左腕には古びた琵琶を静かに抱えている。
空蝉であった。
佐野は一礼した。
「本日は、お力添えをお願いいたします。」
空蝉は何も答えない。
ただ静かに目を細め、小さく頷くだけだった。
その姿は剣豪ではない。
一人の琵琶法師。
あるいは、修行を重ねた老僧そのものであった。
佐野はそれ以上何も言わず、二人で法隆寺へ入っていった。
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客殿では、すでに篠原長房と一色藤長が待っていた。
二人は立ち上がり、一礼する。
「お待ちしておりました。」
佐野も礼を返す。
篠原は空蝉へ目を向けた。
「こちらの御僧は。」
「私の剣の師でございます。」
佐野は静かに答えた。
「本日は法隆寺でございますゆえ、お側に侍っていただきました。」
篠原は深く頷く。
「承知いたしました。」
一色も穏やかに微笑み、それ以上は尋ねなかった。
空蝉は佐野の半歩後ろへ静かに座り、膝へ琵琶を置く。
目を閉じたまま、一言も発しない。
ほどなくして、障子が静かに開いた。
僧衣をまとった一人の男が姿を現す。
年の頃は四十前後。
派手さはない。
しかし、その立ち居振る舞いには揺るぎない威厳があった。
男は合掌した。
「本願寺、下間頼廉にございます。」
佐野も静かに礼を返す。
「小田家臣、佐野昌綱。」
四人は席へ着いた。
しばらく静寂が流れる。
最初に口を開いたのは頼廉だった。
「佐野殿。」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「どうぞ。」
頼廉は真っ直ぐ佐野を見つめる。
「小田殿は近頃、越中や駿河に兵を送り、一向一揆の鎮圧に当たっておられると聞き及びます。」
「事実でしょうか。」
佐野は静かに頷いた。
「事実です。」
頼廉はさらに問い掛ける。
「それはつまり、本願寺を敵と見ておられるということでしょうか。」
客殿が静まり返る。
その時だった。
──ぽろん。
空蝉が琵琶を一音だけ鳴らす。
澄んだ音色が、法隆寺の静寂へ溶けていった。
佐野は静かに口を開く。
「敵ではございません。」
頼廉の眉がわずかに動く。
「私どもが兵を向けたのは、本願寺でも、一向宗でもありません。」
「越中では街道が閉ざされ、村々が戦に巻き込まれました。」
「駿河でも同じです。」
「民が耕し、商人が往来し、子が育つ国が、戦によって失われようとしていた。」
「だから止めました。」
頼廉は黙って耳を傾ける。
佐野は続けた。
「仏を敬うことを禁じるつもりはございません。」
「寺を焼くことも望みません。」
「宗派を滅ぼそうとも思っておりません。」
「しかし。」
佐野の声が少しだけ強くなる。
「信仰を旗印として兵を集め、武によって国を治めようとするならば、それは武家であれ寺社であれ、私は止めます。」
再び静寂が訪れる。
──ぽろん。
また一音。
誰も空蝉を見ない。
しかし、その音だけが客殿の空気を和らげていた。
頼廉はゆっくり目を閉じた。
「なるほど……。」
「敵は本願寺ではなく。」
「争いそのもの、ということですか。」
佐野は頷いた。
「左様。」
「人はそれぞれ信ずるものがあってよい。」
「ですが、その信仰によって民が泣くのであれば、私は刀を抜きます。」
頼廉は静かに息を吐いた。
「安心いたしました。」
「私は、本願寺もまた民を導く寺でありたいと願っております。」
「武だけが残れば、寺ではなくなりましょう。」
その言葉に、一色藤長が口を開いた。
「京もまた同じです。」
「武だけでも、公家だけでも国は治まりません。」
「互いが譲り合わねば、この乱世は終わらない。」
篠原も深く頷く。
「長慶様亡き後、それができる者がおるか。」
「私は、それが何より案じられます。」
佐野は三人を見回した。
三人とも立場は違う。
三好家。
将軍家。
本願寺。
本来ならば同じ席に着くことすら難しい者たちである。
それでも今日、この場に集まった理由は一つだった。
京を、乱世から少しでも遠ざけたい。
その願いだけは、皆同じだった。
頼廉は静かに合掌する。
「本日伺ったお話は、顕如様へそのままお伝えいたします。」
佐野も一礼した。
「ありがとうございます。」
再び客殿に静寂が訪れる。
──ぽろん。
空蝉が三度目の一音を響かせた。
誰も言葉を交わさない。
その余韻だけが、法隆寺の静かな午後に長く残っていた。
この日結ばれた盟約は、紙に記されることも、歴史書に残ることもなかった。
しかし、やがて京を覆う激動の中で、この日の対話が小さくとも確かな礎となることを、その場にいた四人は静かに感じていた。




