興福寺の密約
興福寺の密約
永禄七年二月。
冬の名残を残す大和の空は澄み渡り、興福寺の鐘が静かに朝の奈良へ響いていた。
信濃屋で出浦より、織田信長の六角攻め、三好家中の不穏、そして三好家宿老・篠原長房から会談を望む書状を受け取った佐野昌綱は、約束どおり興福寺を訪れていた。
供をするのは、ごくわずかな儀仗抜刀隊のみ。
興福寺の門前で佐野は馬を降りると、隊士たちを見渡した。
「ここから先は私一人で参る。」
隊士の一人が一歩前へ出る。
「しかし、万一のことがございましたら……。」
佐野は穏やかに首を振った。
「相手も一人で来る。こちらだけ大勢では話し合いにならぬ。」
「……承知いたしました。」
「お前たちは境内の外で待機せよ。私が呼ぶまで姿を見せるな。」
「はっ。」
隊士たちは人目につかぬ場所へ散っていった。
一方、空蝉は京へ戻っていた。
「わしは御所へ参る。」
琵琶を肩に掛けながら笑う。
「義輝様と囲碁でも打って待っておるわ。」
佐野も笑みを浮かべた。
「囲碁を打つのは義輝様だろう。」
「ならば、わしは横で琵琶でも弾いておる。」
軽口を交わしながらも、その真意は互いに理解していた。
万一、この会談が罠であれば、空蝉は御所から直ちに将軍家へ知らせ、抜刀隊を動かす。
何も言わず、二人は別れた。
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興福寺の客殿。
運ばれた茶から湯気が立ち上る頃、一人の男が静かに姿を現した。
「初めてお目にかかる。」
男は深々と頭を下げる。
「三好家宿老、篠原長房にございます。」
佐野も礼を返した。
「小田家臣、佐野昌綱。」
二人は向かい合って座る。
しばらくは世間話が続いた。
奈良の復興、寺社の様子、堺の賑わい。
やがて篠原は茶碗を静かに置いた。
「本日は、一人の武士として参りました。」
「私も同じです。」
佐野が頷く。
篠原はゆっくりと口を開いた。
「まず、お伝えせねばならぬことがございます。」
「我らが主、三好長慶様のお命は、もはや長くはございませぬ。」
客殿が静まり返る。
「長慶様がおられるからこそ、三好家は一つであり続けております。」
「しかし、その柱が失われれば、家中は必ず割れます。」
篠原は静かに続けた。
「外から見れば三好は一枚岩に映るでしょう。」
「ですが実際は違います。」
「三好一族を中心に家を守ろうとする者。」
「一族でなくとも、実力ある者が家を支えるべきと考える者。」
「さらに武で押し切ろうとする武闘派。」
「朝廷や諸大名との和を重んじる穏健派。」
篠原は苦笑した。
「しかも、それらは綺麗に分かれておりませぬ。」
「一族の中にも武闘派と穏健派がおり、一族外にも同じようにおります。」
「そこへ三好三人衆、それぞれの思惑が重なる。」
「昨日の味方が今日の敵となり、今日の敵が明日は手を結ぶ。」
「協力と敵対を繰り返し、誰にも先が読めませぬ。」
佐野は静かに息を吐いた。
「複雑な対立になっている。」
「左様。」
篠原は頷く。
「長慶様だけが、その均衡を保っておられるのでございます。」
しばらく沈黙が流れた。
篠原はさらに声を潜める。
「もう一つ、お耳に入れておきたいことがございます。」
「申されよ。」
「将軍家に凶事が及ぶやもしれませぬ。」
佐野の視線が鋭くなる。
「義輝様か。」
「はい。」
篠原は静かに頷いた。
「私は、三好三人衆が将軍家を排そうとしているのではないかと見ております。」
「確証は。」
「ございませぬ。」
篠原はきっぱりと言った。
「誰かの書状を見たわけでも、命を聞いたわけでもございません。」
「ただ、家中の空気、人の動き、交わされる言葉の端々を長年見てきた私の読みです。」
「外れれば私の恥。」
「しかし、当たれば京は再び血に染まりましょう。」
篠原は自嘲気味に笑った。
「もっとも、この話を申し上げたのは義のためだけではございませぬ。」
佐野は黙って聞いていた。
「三好が割れれば、私も家臣や郎党を守らねばなりませぬ。」
「この情報を手土産として、小田家に少しでも良い条件で迎えていただきたい。」
「そのような打算もございます。」
飾らぬ本音だった。
佐野は静かに頷く。
「正直なお方だ。」
「隠しても、いずれ見抜かれます。」
佐野は穏やかな声で答えた。
「篠原殿。」
「はっ。」
「今は動く時ではない。」
篠原は黙って耳を傾ける。
「長慶公はまだ御存命だ。」
「今おぬしが動けば、三好も、おぬし自身も滅びる。」
「ゆえに、時を待て。」
その一言は静かでありながら重かった。
「その時が来れば、おぬしの働きと志にふさわしい遇し方を約束しよう。」
篠原は深々と頭を下げる。
「そのお言葉だけで十分にございます。」
二人は立ち上がり、別れの礼を交わした。
篠原は障子へ向かって歩き出したが、ふと足を止めた。
「佐野殿。」
「まだ何か。」
篠原は静かに振り返る。
「三月に、お会いいただきたい御方がおります。」
「どなたです。」
「今は、お名前を申し上げることはできませぬ。」
篠原は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ですが、その御方もまた、この乱世を憂え、佐野殿と一度語り合いたいと望んでおります。」
「三好の者か。」
「その問いにも、今はお答えできませぬ。」
佐野は少し考え、静かに尋ねた。
「いつ。」
「三月。」
「どこで。」
「東大寺にて、お待ちしております。」
興福寺の鐘が、静かに鳴り響く。
その音を聞きながら、佐野はゆっくりと頷いた。
「承知した。」
篠原は深く一礼した。
「感謝いたします。」
二人は最後の礼を交わし、それぞれ別の道を歩き始めた。
この日、興福寺で交わされた約束は二つ。
一つは、時を待つこと。
そしてもう一つは、三月、東大寺で再び相まみえること。
まだ冷たい春風が奈良の町を吹き抜ける中、新たな縁は静かに結ばれ、乱世は誰にも気づかれぬまま、次の一手へと動き始めていた。




