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永禄七年(1564年)二月 信濃屋の密談

夕暮れの京。


御所での務めを終えた佐野昌綱は、六角堂近くの信濃屋へ足を運んだ。


暖簾をくぐると、女将が静かに頭を下げる。


「お帰りなさいませ。」


佐野は周囲を見回し、いつもの合言葉を口にした。


「今年の信濃味噌の出来はいかがです。」


女将は微笑みを崩さぬまま答える。


「蔵でお待ちしております。」


佐野は裏手の蔵へ向かった。


酒樽と味噌桶が並ぶ薄暗い蔵には、一人の男が静かに座していた。


「お久しぶりでございます、佐野様。」


小田家見聞方頭領、出浦であった。


佐野は腰を下ろし、早速本題へ入る。


「報せを聞こう。」


出浦は懐から数枚の書付を取り出した。


「まず近江にございます。」


「織田信長、美濃攻略の勢いそのままに六角攻めを開始いたしました。」


「……やはり動いたか。」


「はい。伊勢口と美濃口、二方面より軍を進めております。大和が中立であることも織り込み済みでしょう。」


佐野は静かに頷いた。


「他には。」


出浦は二枚目の書付を差し出す。


「こちらが本命にございます。」


佐野が目を通すと、わずかに眉が動いた。


「浅井か。」


「はい。織田家は浅井家との婚姻を進めております。」


「確かなのだな。」


「三筋より同じ報せを得ました。」


佐野は地図を広げる。


美濃、伊勢、近江、そして北近江。


指先が浅井領で止まる。


「六角を東西から挟み、さらに北を固める……。」


「織田家中では、美濃攻略は終わったという空気です。皆、西を見ております。」


しばし沈黙が流れた。


「噂以上の男だ。」


佐野は静かに呟く。


「武だけではない。婚姻も調略も商いも、一つの戦として使っている。」


出浦も静かに頷いた。


「まさにその通りでございます。」


そして、出浦はさらに声を潜めた。


「もう一件ございます。」


「申せ。」


「三好家重臣、篠原長房殿が、小田方との接触を望んでおります。」


佐野は顔を上げた。


「篠原長房が?」


「はい。」


「寝返りか。」


「いえ、そこまでは申しておりませぬ。ただ、一度小田方と話がしたいとのことです。」


佐野は腕を組んだ。


篠原長房ほどの宿将が軽々しく動くとは思えない。


長慶の病。


三好家中の不安。


そのすべてを見据えた上での接触なのだろう。


「水戸殿と北畠殿ならば適任だが……。」


出浦は苦笑した。


「お二人は現在、織田方への使者として京を離れております。」


「ああ、そうであったな。」


「ゆえに、この件は佐野様ご自身にお願いしたいとの御意向です。」


蔵の中は静まり返る。


やがて佐野はゆっくりと頷いた。


「承知した。」


「では。」


「こちらから条件は付けぬ。まずは篠原殿の話を聞こう。何を憂え、何を守りたいのか。それを知らねば始まらん。」


出浦は深く一礼した。


「心得ました。」


佐野は書付を火鉢へくべる。


紙は炎に包まれ、やがて灰となって崩れ落ちた。


東では織田信長が近江へ軍を進め、西では三好家中に揺らぎが生まれ始めている。


戦は、槍や刀だけで決まるものではない。


人の心が動く時、天下もまた動く。


佐野は静かに立ち上がった。


「今年は忙しくなりそうだな。」


出浦はその言葉に小さく笑みを浮かべた。


「はい。天下が、大きく動き始めております。」

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