御所 ― 碁盤と琵琶の音
冬の柔らかな陽が御所の庭を照らしていた。
一室では、碁盤を挟んで足利義輝と佐野昌綱が向かい合う。
「そこです。」
佐野は黒石を置く。
義輝は盤を眺めると、すぐに白石を打った。
「また取られました。」
佐野は苦笑した。
「昌綱は石を惜しみすぎる。」
「剣なら一歩も退きたくありませぬので。」
義輝は声を上げて笑う。
「そこじゃ。碁は剣とは違う。一つ捨てれば十が生きることもある。」
「なるほど……。」
義輝は盤を指差しながら、一つひとつ丁寧に解説していく。
佐野は熱心に頷き、そのたびに感心したような声を漏らした。
剣を教えるのは佐野。
碁を教えるのは義輝。
二人は自然と師弟を入れ替えながら、穏やかな時間を過ごしていた。
その傍らでは、また別の賑やかな声が聞こえる。
「空蝉殿、もう一度。」
「姫様、指はもっと力を抜きなされ。」
盲目の琵琶法師・空蝉が静かに微笑みながら琵琶を抱えていた。
その向かいには義輝の妹が、少し不満そうな顔で座っている。
「難しいのです。」
「誰でも最初はそうです。」
空蝉は少女の手にそっと触れ、撥の角度を直す。
「弦を叩くのでなく、撫でるように。」
姫が恐る恐る撥を動かす。
——ポロン。
先ほどより澄んだ音が座敷に響いた。
「できました!」
「ええ、今の音です。」
空蝉は満足そうに頷く。
「姫様は耳がよろしい。」
「本当ですか?」
「ええ。焦らねば、必ず上達いたします。」
嬉しそうに笑う姫を見て、義輝も佐野も自然と笑みを浮かべた。
「空蝉殿は教えるのが上手いな。」
義輝がそう言うと、空蝉は肩をすくめる。
「見えぬゆえ、音しか頼れませぬ。されど、音は嘘をつきませぬ。」
佐野は思わず感心する。
「剣にも通じますな。」
「歩にも、呼吸にも。」
空蝉は穏やかに答えた。
部屋には再び碁石の音が響く。
——コツ。
その合間に、琵琶の優しい音色が流れる。
——ポロン。
静かな冬の日。
将軍は碁を教え、盲目の法師は琵琶を教える。
その光景は、乱世の京であることを忘れさせるほど穏やかだった。
義輝はふと佐野の横顔を見る。
昌綱と過ごすようになってから、御所には笑い声が増えた。
剣を語り、碁を打ち、市井を歩き、ときには甘味を囲む。
そこへ空蝉も加わり、妹まで楽しそうに笑っている。
(このような日々が、いつまでも続けばよいのだが。)
義輝は胸の内でそう願う。
しかし乱世は、人の願いを待ってはくれない。
だからこそ、この何気ない一日が、将軍にとっては何よりもかけがえのない時間となっていた。




