星降る船上喫茶
二荒山の船内喫茶には、夜の海を渡る涼しい風が流れ込んでいた。
窓の外では月明かりが波を銀色に照らし、遠くには堺の灯がまだ瞬いている。
義輝の妹姫は、佐野、新田、結城の三人と向かい合い、ようやく堅苦しい席から解放されたように小さく息をついた。
佐野が穏やかに笑う。
「今日は身分も役目も忘れましょう。」
「ここでは一人の旅人として、お話しいたしましょう。」
姫も微笑んだ。
「ありがとうございます。」
「では、皆様のお話を聞かせてください。」
「戦のお話ではなく。」
「旅で一番面白かったことを。」
三人は顔を見合わせた。
結城が最初に口を開く。
「では私から。」
「会津の山で薬草を探していた時のことです。」
「珍しい花を見つけて夢中になっていたら、いつの間にか熊の子に後をつけられていました。」
姫は目を丸くする。
「危なくありませんでしたか。」
「親熊が来る前に逃げました。」
「ですが帰ってみると、熊ではなく私の方が山で迷ったと皆に笑われました。」
佐野も笑う。
「結城は薬草を見ると周りが見えなくなる。」
「兵学館でも授業を忘れて山へ入るほどでした。」
結城は苦笑した。
「薬草の方が授業より面白かったのです。」
姫はくすりと笑う。
「少し分かる気がいたします。」
今度は新田が話し始めた。
「私は夜空ばかり見ていました。」
「星を眺めながら歩いていると、木にぶつかる。」
「木を避ければ今度は川へ落ちる。」
「そのたびに結城が助けてくれました。」
結城が頷く。
「星を見る時は前も見ろ、と何度言ったことか。」
新田は照れ笑いを浮かべた。
「ですが、そのおかげで北極星だけは誰より詳しくなりました。」
姫は窓の外の星を見上げる。
「皆様は、それぞれ夢中になるものがおありなのですね。」
「姫様はございますか。」
佐野が尋ねると、姫は少し考えてから答えた。
「私は……町歩きでしょうか。」
「今日の堺も、とても楽しかったです。」
「飴細工や、南蛮のお菓子や、お香。」
「見たことのないものばかりでした。」
「それは良かった。」
佐野は嬉しそうに笑う。
「旅とは、人ではなく景色に出会うことでもありますから。」
結城が思い出したように言った。
「そういえば堺で一番驚いたのは氷です。」
「真夏に冷えた茶が飲めるとは思いませんでした。」
新田も頷く。
「しかも商人たちは、氷があるだけで皆笑顔になっていました。」
姫は楽しそうに笑う。
「兄上も喜んでおられました。」
「冷たいお茶を何杯も召し上がって。」
佐野は肩をすくめた。
「将軍様も、ああいう時は年相応です。」
「甘い物や冷たい物を前にすると、少年のようなお顔になります。」
姫は思わず吹き出した。
「そのお話は、兄上には内緒にしてくださいませ。」
「もちろんです。」
三人は声を揃えた。
船内には穏やかな笑い声が広がる。
戦や政の話は一切ない。
誰が強いかも、誰が偉いかも語らない。
ただ旅で見つけた景色や、少し失敗した出来事、思わず笑ってしまう思い出を語り合う。
姫は湯呑を両手で包みながら、小さく呟いた。
「こうして皆様とお話ししていると……。」
「乱世であることを、少しだけ忘れられます。」
佐野は静かに頷いた。
「それなら、この時間は大成功です。」
「平和とは、きっとこういう時間の積み重ねなのだと思います。」
窓の外では、満天の星が静かに海を照らしていた。




