砂浜の継承
浜辺での立ち合いから三か月が過ぎた。
佐野昌綱は京へ戻ることを急がなかった。
「もうしばらく、この敦賀で学ばせていただきたい。」
そう富岡青洲へ願い出ると、老人は白い髭を撫でながら目を細めた。
「よかろう。ならば、お前はもう一度、剣を忘れよ。」
その一言から、佐野の新たな修行が始まった。
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富岡青洲は木剣を握らせない日すらあった。
まず歩く。
砂浜を歩く。
乾いた砂を踏み、波打ち際を歩き、濡れた砂を踏み締める。
朝日が昇る頃から夕暮れまで。
足裏で砂を感じ、波の音を聞き、潮風を受ける。
「剣は腕では振らん。」
「足で振る。」
「足は腰から生まれる。」
「腰は心から生まれる。」
青洲の教えは、どれも単純だった。
しかし、その単純さゆえに難しかった。
居合も教える。
だが、その前に納刀を教える。
納刀が乱れれば抜刀も乱れる。
礼法が乱れれば心が乱れる。
心が乱れれば一太刀も乱れる。
すべては一つにつながっていた。
佐野は一切の不満を口にしなかった。
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夜になると、その日の稽古を振り返った。
兵学館で学んだ日々。
上泉伊勢守から授かった「歩」。
天覧試合。
西国武士との立ち合い。
済済道人――空蝉との死闘。
鴨川の朝稽古。
そして、涙とともに放ったあの一閃。
勝った戦も、敗れた戦も、引き分けた戦も、一つ残らず思い返した。
そのたびに剣を振る。
違うと思えば、また最初から歩き直す。
技を積み重ねるのではない。
積み重ねてきたすべてを、一度ほどいて紡ぎ直す。
三か月という歳月は短い。
だが佐野にとっては、それまで歩んできた剣の人生を、もう一度生き直すほど濃密な時間であった。
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不思議なことがあった。
気比神道流の教えは、恐ろしいほど佐野の身体になじんだ。
抜けば一太刀。
礼に始まり礼に終わる。
深く踏み込み、迷わず斬る。
その理は、まるで長年身につけていたかのようだった。
しかし青洲は笑った。
「違う。」
「お前が気比神道流に向いているのではない。」
「上泉殿がお前の土台を作ったのだ。」
青洲は砂浜に一本の線を引く。
「新陰流で歩を知った。」
「だから気比神道流の居合が生きる。」
「どちらか一つだけでは、この剣にはならぬ。」
佐野は静かに頷いた。
その言葉に異論はなかった。
上泉伊勢守が築いた土台の上へ、空蝉との旅が道を開き、富岡青洲が最後の形を与えてくれた。
どれ一つ欠けても、今の自分は存在しない。
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その頃、空蝉は稽古へ顔を出すことは少なかった。
「師匠が教えているなら、俺の出る幕じゃねぇ。」
そう言って敦賀の町を歩き回っていた。
珍しく酒より先に土産物を眺め、信濃屋の女将へ贈る簪や若狭塗の箸を手に取っては首を傾げる。
町人たちは笑った。
「幽鬼斎殿も、女への土産で悩むものか。」
空蝉は照れ臭そうに鼻を鳴らす。
「恩人なんだ。少しくらい悩ませろ。」
そんな穏やかな日々が、三か月流れた。
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やがて旅立ちの日が来た。
最後の立ち合いを終え、佐野は木剣を納める。
青洲はしばらく黙って見つめていたが、やがて豪快に笑い出した。
「もうよい。」
佐野は深く頭を下げる。
「まだ未熟です。」
その言葉に、青洲は苦笑した。
「その台詞を言われると、教えるこちらが恥ずかしくなる。」
門弟たちから笑いが起こる。
青洲は佐野の肩を力強く叩いた。
「儂がお前に教えることは、もうない。」
「いや、違うな。」
「教えようと思えば、いくらでもある。」
「だが、お前はもう自分で答えを見つける。」
「ならば師はいらぬ。」
佐野は再び深く一礼した。
「三か月、ご教導いただきありがとうございました。」
青洲は照れ隠しに手を振る。
「礼なら上泉殿へ言え。」
「あの御仁が根を育てた。」
「空蝉がお前の心を揺らした。」
「儂は、その木に少し枝を添えただけだ。」
潮風が吹き抜ける。
空蝉は荷を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「さて、佐野。」
「そろそろ京へ戻るか。」
佐野は敦賀の海を振り返る。
この砂浜で流した汗も涙も、きっと生涯忘れることはない。
静かに一礼すると、佐野昌綱は空蝉と並び、新たな戦いが待つ京への道を歩き始めた。




