雷哭
佐野は静かに空蝉と向かい合った。
木剣を握る手に力はない。
ふと、佐野の口が動く。
「……ありがとう。」
あまりにも小さな声だった。
波音にさらわれ、空蝉の耳には届かない。
だが、その一言だけで十分だった。
これまでの旅路。
鴨川での教え。
湖畔を歩いた日々。
空蝉の過去。
神剣を託された重み。
すべてが胸に溢れ、佐野はしばらく動かなかった。
空蝉もまた、それを急かさない。
ただ静かに待つ。
やがて佐野は息を吐いた。
構えない。
刀も抜かない。
しかし、その場の空気だけが張り詰める。
青洲も門弟たちも、思わず息を呑んだ。
その刹那だった。
佐野の頬を一筋の涙が伝う。
同時に――
雷鳴のごとき抜刀。
誰の目にも、抜いた瞬間は見えなかった。
砂浜を裂き、一条の雷光のような斬撃が空蝉へ奔る。
「……っ!」
空蝉の身体が大きく弾き飛ばされる。
しかし、さすがは幽鬼斎。
空中で身をひねり、砂浜へ美しく着地する。
その瞳は見えずとも、口元には笑みが浮かんでいた。
「そう来るか、佐野!」
今度は空蝉が駆ける。
幼き日より慣れ親しんだ砂浜。
踏み込みの跡を逃すまいと、一気に間合いを潰す。
逆手の木剣が唸る。
だが――
佐野はもうそこにはいなかった。
受けない。
避けるでもない。
空蝉が動き出す、そのさらに前。
気配の生まれる一瞬を捉え、自然と身を置き換えていた。
空蝉は初めて悟る。
これは後の先ではない。
先の先。
その瞬間、砂がわずかに崩れた。
踏み込みすぎた空蝉の足が、一瞬だけ砂に取られる。
ほんの一瞬。
しかし達人同士には永遠にも等しい。
佐野はすでに木剣を納めていた。
静かに。
音もなく。
再び居合の姿勢で空蝉を待っている。
空蝉も動きを止めた。
これ以上踏み込めば、自分が斬られる。
佐野もまた、空蝉が剣を抜かぬ限り抜くつもりはない。
長い静寂。
やがて空蝉は木剣を下ろし、ふっと笑った。
「……参った。」
佐野もゆっくりと礼を返す。
勝負は終わった。
勝った負けたではない。
二人は互いに、この旅で得たものを確かめ合ったのである。




