波打ち際の道場
翌朝。
佐野と空蝉は継彦に案内され、気比神社を後にした。
松林を抜けると潮の香りが濃くなる。
やがて視界が開け、日本海の青い海が一面に広がった。
その海岸沿いに、一棟の質素な道場が建っている。
「こちらです。」
継彦が静かに告げた。
「気比神道流の道場にございます。」
佐野は頷きながら周囲を見回した。
しかし、首を傾げる。
「……道場は、あちらにございますね。」
「はい。」
「では、なぜ皆様……。」
佐野の視線の先には、不思議な光景があった。
門弟たちは誰一人として道場の床では稽古をしていない。
全員が裸足となり、波打ち際の砂浜で木刀を振っていた。
寄せては返す波。
足元は柔らかな砂。
踏み込むたびに砂が沈み、体勢がわずかに崩れる。
それでも門弟たちは乱れることなく、一太刀一太刀を繰り出していた。
さらに驚いたことに、立ち合いまで砂浜で行われている。
足跡はすぐに崩れ、同じ場所へ踏み込むこともできない。
佐野は思わず呟いた。
「……これは。」
空蝉が笑う。
「驚いただろ。」
継彦も穏やかに頷いた。
「気比神道流では、砂浜こそ最高の稽古場と考えます。」
「地は常に変わるもの。」
「平らな板間だけで身につけた足運びは、実戦では通じぬ、と。」
佐野は目を細めた。
なるほど。
砂は踏み込めば沈み、
波は足をさらい、
小石は踏み方を狂わせる。
それでも姿勢を崩さず、抜刀し、納刀し、斬り結ぶ。
だからこそ、どのような地形でも戦える。
空蝉は懐かしそうに砂浜を眺めた。
「子どもの頃、俺もここで何度も転ばされた。」
「踏み込みが強すぎると沈む。」
「弱すぎると斬れねえ。」
「先生に『海は嘘をつかん』って毎日怒鳴られたもんだ。」
継彦は微笑む。
「海辺の町ゆえの流儀です。」
「浜、船着場、岩場。」
「この土地で争いが起これば、足場の良い場所などございません。」
その時だった。
師範らしき老人が門弟たちの前へ立つ。
「止め。」
一斉に木刀が収まる。
老人は佐野たちへ目を向けると、静かに笑った。
「継彦殿。」
「その御方が、兄君の連れてこられた坂東の剣士ですかな。」
継彦は深く一礼した。
「はい。」
「佐野昌綱殿にございます。」
老人の視線が佐野の腰へ移る。
そこに差されているのは、かつて気比神社に伝わっていた御神刀だった。
老人は一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「なるほど。」
「ようやく、あの刀も帰るべき鞘を見つけましたか。」
波の音だけが、静かに浜辺へ響いていた。




