神宝の託し先
社務所には静かな緊張が満ちていた。
神職たちに囲まれ、継彦は神棚へ一礼すると、自ら桐箱を開いた。
白布の上に現れた一振りの刀は、長い年月を経てもなお鈍い輝きを放っていた。
継光は懐かしそうに目を細める。
「……久しぶりだな。」
「実はな、ガキの頃、親父の目を盗んで何度か持ったことがある。」
神職たちから苦笑が漏れる。
継彦も笑った。
「兄上は昔から叱られてばかりでした。」
「そうそう。」
「だが、その時から不思議な刀だった。」
継光は刀を見つめる。
「抜きやすい。」
「だが軽すぎねえ。」
「居合に向いているのに、そのまま斬り結ぶこともできる。」
「そんな刀だった。」
継彦は刀を佐野の前へ差し出した。
「佐野殿。」
「兄上がそこまで申すお方です。」
「どうぞ、ご覧ください。」
佐野は刀には触れず、まず神前へ深く一礼した。
続いて両手で静かに刀を受け取る。
その所作には一切の乱れがなかった。
腰へ添え、わずかに柄へ手を掛ける。
自然と身体が沈み、呼吸が静まる。
刀がまるで己の一部になったようだった。
ゆっくりと数寸だけ抜き、地鉄と刃文を確かめる。
音もなく納刀する。
誰一人、言葉を発しなかった。
佐野は刀を見つめたまま静かに口を開く。
「……見事です。」
「居合の初太刀を最も生かせる造りです。」
「しかし居合だけではありません。」
「抜いたその勢いで、そのまま斬り結ぶことまで考えられております。」
継光は満足そうに頷く。
「やっぱり分かったか。」
「俺も子供の頃、同じことを思った。」
佐野は名残惜しそうに刀を撫でた。
その眼差しには剣士としての憧れが宿っていた。
だが次の瞬間、その刀を両手で持ち上げ、継彦の前へ返した。
「……申し訳ございません。」
「この刀は頂戴できません。」
社務所が静まり返る。
継彦が静かに尋ねる。
「理由を、お聞かせ願えますか。」
佐野は深く頭を下げた。
「これは代々気比神社に伝わる御神刀。」
「神へ捧げられた神宝にございましょう。」
「武士である私が持ち出すべきものではありません。」
「まして、この刀で人を斬り、血を浴びせるなど……。」
佐野はゆっくり首を振った。
「神への供物を血で汚すようなことは、私にはできませぬ。」
「拝見できただけで十分でございます。」
その言葉に神職たちは顔を見合わせた。
継彦はしばらく黙って佐野を見つめていたが、やがて穏やかに笑みを浮かべた。
「……兄上。」
継光が首を傾げる。
「何だ。」
「兄上が、この方を見込まれた理由が分かりました。」
継彦は佐野へ向き直る。
「刀の価値が分かるだけではありません。」
「価値が分かるからこそ、受け取らぬ。」
「神宝を神のものとして敬う心をお持ちでした。」
「この御神刀は、そのようなお方にこそ託されるべきなのでしょう。」
そう言うと継彦は、今度は佐野が持参した品々へ視線を移した。
龍涎香。
珍香。
鼈甲細工の香合。
南海から運ばれた、見たこともない珍宝。
神職たちは思わず見惚れていた。
香りは気高く、細工は神々しいほど精緻だった。
継彦は静かに頷く。
「この刀は、この社では誰も真価を生かせません。」
「一方、この南海の珍品は祭礼に用いる香となり、神前を飾る宝となります。」
「神々へ捧げるに、これほどふさわしい品はございません。」
継彦は刀を佐野の前へ差し出した。
「佐野殿。」
「これは売買ではありません。」
「神宝と神宝の交換です。」
「気比神社にとって、この南海の宝は新たな神宝となるでしょう。」
「そして、この御神刀は、あなたという使い手を得て初めて生きる。」
「それこそが兄上の願いであり、当代たる私の願いでもあります。」
継光は腕を組み、満足そうに笑った。
「言ったろ、佐野。」
「この刀は、ずっと持ち主を待っていたんだ。」
佐野はなおも辞退しようとした。
しかし継彦は静かに首を横へ振る。
「どうか、お受けください。」
「神は宝を蔵へ眠らせることではなく、人のために生かされることもお望みになるはずです。」
その言葉に、佐野は深く頭を垂れた。
「……ありがたく、お受けいたします。」
社務所には、神宝が新たな主へ受け継がれたことを祝福するように、静かで温かな空気が流れていた。




