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湖畔の焚き火

雨上がりの朝。


信濃屋の女将に見送られ、佐野昌綱と空蝉は京を後にした。


「気を付けておいで。」


「帰ってきたら、また魚を焼いてあげるからね。」


女将の声に、空蝉は照れ隠しのように手を振るだけだった。


二人は北へ馬を進める。


比叡の山並みを越え、やがて琵琶湖がその雄大な姿を現した。


湖面は雨に洗われた青空を映し、風はどこまでも澄んでいる。


「せっかくだ。」


湖を眺めながら空蝉が笑う。


「今日は旅籠なんぞ泊まらねえ。」


「湖畔で野営しよう。」


佐野も異論はなかった。


日が傾く頃、二人は湖岸の松林に馬を繋ぎ、小さな焚き火を起こした。


佐野が干飯を湯で戻し、空蝉が道中で手に入れた魚を焼く。


静かな波音だけが夜の訪れを告げていた。


夕餉を終えると、空蝉は荷から一本の酒瓶を取り出す。


信濃屋の女将が餞別として持たせてくれた酒だった。


「旅の途中で飲みな。」


そう言って渡された、お気に入りの酒である。


空蝉は酒瓶を抱え、焚き火を見つめながらゆっくり栓を抜いた。


一口飲む。


「……うまい。」


それきり長い沈黙が続く。


薪がはぜる音だけが、夜の湖畔に響いた。


やがて空蝉は静かに口を開く。


「佐野。」


「俺のことを話しておこう。」


佐野は何も言わず頷いた。


「俺は空蝉なんて名じゃねえ。」


「その前は済済道人と名乗っていた。」


苦笑する。


「あれも本当の名じゃねえよ。」


「坊主になった時に適当につけた法号みたいなもんだ。」


酒をもう一口飲み、炎を見つめる。


「本当の名は――気比継光。」


「明日向かう気比神社、その神職の家に生まれた。」


「だが、庶子だった。」


夜風が静かに吹き抜ける。


「母は俺が幼い頃に亡くなった。」


「だから俺は、家の中じゃ少し浮いた存在だった。」


「それでも、不思議と寂しいとは思わなかった。」


「本を読むのが好きだったからな。」


空蝉は懐かしむように笑う。


「古い書物を読み、兵法を読み、昔の戦の話を読む。」


「剣を振るうのも好きだった。」


「英雄の話を読むたびに思った。」


『いつか、この外の世界を自分の目で見てみたい。』


「それが子どもの頃からの夢だった。」


焚き火に薪を一本くべる。


「庶子の俺に家督は回ってこねえ。」


「なら好きに生きてもいいだろう、と若気の至りで考えた。」


「ある日、勝手に家を出た。」


佐野が静かに尋ねる。


「誰にも告げずにですか。」


空蝉は首を横に振った。


「いや。」


「一人だけ話した。」


「腹違いの弟だ。」


その声だけが少し柔らかくなる。


「家を継ぐはずだった弟だが、俺たちは本当の兄弟みてえに育った。」


「よく一緒に本を読み、木剣を振った。」


「旅立つ前の晩、あいつだけは呼び出して話した。」


『兄上、本当に行ってしまわれるのですか。』


『行く。』


『帰ってきますか。』


空蝉は静かに目を閉じる。


「その問いには答えられなかった。」


「すると、あいつは子どもみたいに泣いた。」


『兄上がいなくなったら、私は寂しいです。』


『どうか行かないでください。』


空蝉は酒瓶を握り締め、小さく笑う。


「それでも俺は行っちまった。」


「外の世界を見たいって気持ちのほうが強かった。」


「そのまま奈良へ流れ着き、医者に拾われ、興福寺へ入り、済済道人と名乗るようになった。」


しばらく沈黙が流れる。


波の音だけが、二人の間を満たしていた。


やがて空蝉は酒をあおり、静かに呟く。


「明日帰るのは……。」


「何十年も帰らなかった故郷だ。」


「弟が生きているのか、それとももう亡くなったのか。」


「俺にも分からねえ。」


佐野は焚き火の向こうで静かに頭を下げた。


「その旅に、お供できることを光栄に思います。」


空蝉は照れくさそうに笑い、酒瓶を抱え直した。


「湿っぽい話になっちまったな。」


「もう寝よう。」


焚き火は静かに燃え続け、琵琶湖の夜は更けていった。

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