夜明け前の鴨川
翌朝――。
まだ夜の帳が空を覆い、東の空がようやく藍色へと変わり始めた頃だった。
「起きろ、佐野殿。」
信濃屋の戸が静かに叩かれる。
佐野が外へ出ると、空蝉がいつものように杖を肩へ担ぎ、徳利を片手に立っていた。
「まだ夜ではありませんか。」
「もう朝だ。」
空蝉は笑うと、徳利の栓を抜いた。
ぐい、と一口あおる。
「迎え酒だ。」
「……朝からですか。」
「昨夜の酒を追い出すには、朝の酒が一番よ。」
豪快に笑う空蝉に、佐野は苦笑するしかなかった。
二人は静かな京の町を歩く。
やがて鴨川へ着く頃には、鳥が一声、また一声と鳴き始めていた。
川面には薄い朝霧が漂い、人影はほとんどない。
空蝉は河原へ腰を下ろし、また一口どぶろくを飲んだ。
「さて。」
「まず言っておく。」
佐野も向かいへ座る。
空蝉は徳利を膝へ置き、真顔になった。
「お前さんに剣で教えることはない。」
「……。」
「剣は一流だ。」
「なんせ、済済道人を倒したと聞いたからな。」
そう言うと、自分で吹き出した。
「ははは、済済道人とはわしのことだった。」
佐野も思わず笑みを漏らす。
空蝉は笑い終えると静かに続けた。
「冗談はさておき、本気でそう思っとる。」
「今のお前さんに剣で太刀打ちできる者はそうおらん。」
「上泉殿か、柳生殿か……そのくらいのものだ。」
「それ以外が剣を教えるなど、笑い話になる。」
佐野は静かに頭を下げた。
「過分なお言葉です。」
「だがな。」
空蝉は人差し指で河原の砂を軽く叩いた。
「歩なら教えられる。」
「身体の使い方なら教えられる。」
「そこは、まだまだわしのほうが上だ。」
佐野の表情が引き締まる。
空蝉は続けた。
「戦った者として言う。」
「お前さんの受けは見事だった。」
「あれほど美しい後の先は見たことがない。」
「相手を受け、崩し、そこから連撃へ移る。」
「まさに極上の剣だ。」
少し間を置き、空蝉は首を横に振った。
「だが、それでは上泉殿の宿題は解けん。」
「……はい。」
「今、お前さんに必要なのは。」
空蝉は徳利を置き、立ち上がる。
「発想の転換だ。」
朝霧の中を、ゆっくりと歩き始める。
「居合とは何だ。」
「抜いて、斬る技か。」
「違う。」
「先を取る技だ。」
空蝉は不意に歩みを止めた。
「お前さんは、二の太刀を残している。」
「一の太刀で足りなければ二の太刀。」
「二の太刀で足りなければ三の太刀。」
「それは理にかなっている。」
「だが、それでは敵陣は裂けん。」
佐野は黙って聞いていた。
空蝉は振り返る。
「二の太刀を捨てろ。」
その一言は、朝の静寂に深く響いた。
「一太刀で終わらせる覚悟を持て。」
「二の太刀を考えた瞬間、一の太刀は鈍る。」
佐野は息を呑む。
空蝉はさらに言葉を重ねる。
「お前さんは『破』へ行こうとしている。」
「だが皮肉なことに、そのためには一度『守』へ立ち返らねばならん。」
「余計なものを削ぎ落とし、一太刀だけを磨く。」
「そして――」
空蝉は河原の石を指差した。
「深い踏み込み。」
「先の先。」
「この二つが揃って初めて、雷は落ちる。」
空蝉はにやりと笑った。
「今日は剣を振るうな。」
「まずは、その一歩から始めるぞ。」




