月下の修練
その日、佐野昌綱は御所に残ることを願い出た。
「将軍家、今宵だけ庭をお借りしてもよろしいでしょうか。」
義輝は理由を尋ねることなく微笑んだ。
「構わぬ。誰も近づけぬよう申し付けよう。」
「ありがとうございます。」
日が沈み、御所は静寂に包まれた。
昼間まで咲き誇っていた紫陽花は月明かりに淡く浮かび、庭を渡る風だけが葉を揺らしている。
佐野は一人、庭の中央へ進み出た。
木剣ではない。
腰には愛刀を帯びている。
静かに一礼すると、ゆっくりと鯉口を切った。
(上泉様……。)
(一撃で道をこじ開ける剣。)
深く息を吸い、目を閉じる。
そして、抜いた。
キィン――。
澄み切った鞘走りの音が夜気を震わせる。
一閃。
返す刃が流れるように舞い、二閃。
さらに身体を巡らせて三閃。
まるで神楽の剣舞のように、一つ一つの動きが淀みなく繋がっていく。
ヒュン――。
ヒュウッ――。
静かな夜に、刃が風を裂く音だけが低くうなった。
人の声はない。
虫の音さえ、その音を邪魔しないかのように遠ざかっている。
佐野は止まらない。
抜き、斬り、返し、納める。
また抜き、また舞う。
何度も、何度も。
剣舞のような連撃は美しく、隙もほとんどない。
しかし、佐野は一つの形を終えるたびに静かに首を横へ振った。
「……違う。」
再び構える。
また風切り音だけが夜空へ溶けていく。
ヒュン――。
ヒュウッ――。
御所の庭には、月明かりの下で一人、新たな境地を求める剣士の修練だけが、静かに続いていた。




