梅雨の束の間の晴れ
梅雨に入って幾日が過ぎたころであった。
朝から都を覆っていた厚い雲が、風に押されるようにゆっくりと東へ流れてゆく。
やがて雲間から柔らかな陽光が差し込み、久しく姿を見せなかった青空が京の上に広がった。
まさに、梅雨の束の間の晴れである。
御所の庭では、雨露をたっぷりと含んだ紫陽花が、陽を浴びて一段と鮮やかな色彩を放っていた。青は深く、紫は艶やかに、薄紅は可憐に咲き誇り、湿り気を帯びた風が花の香を静かに運んでいく。
御所の警固は、なお一分の隙もなかった。
襲撃未遂の余波はいまだ消えず、門には奉公衆と儀仗抜刀隊が立ち、巡邏の足も緩むことはない。
だが、晴れた空を待ちかねていた者たちがいた。
「行け。」
新田政景が静かに腕を差し出す。
その合図とともに、北斗が力強く翼を打ち鳴らして舞い上がる。
続いて標も軽やかに空へ躍り出た。
幾日も雨に閉じ込められていた鬱憤を晴らすかのように、二羽は高く、さらに高く京の空へ舞い上がる。
北斗は悠然と大きな円を描いて上空を見張り、標は屋根から屋根へと鋭く飛び移りながら御所の周囲を巡る。
その姿を見上げ、新田は静かに笑った。
「ようやく思う存分飛べるな。」
佐野も空を仰ぎ、小さく頷く。
「敵も容易には近づけますまい。」
「ええ。」
新田は北斗と標から目を離さぬまま答えた。
「一度あの二羽にしてやられておりますゆえ、敵も警戒するでしょう。」
「空に鷹の影を見れば、自分たちは見られているのではないかと疑う。」
「その疑いだけでも、敵の足は鈍ります。」
二羽の鷹は、ただ空を飛ぶだけではない。
その存在そのものが、御所を守る見えざる盾となっていた。
その様子を見届けた上泉伊勢守は、静かに佐野へ声を掛けた。
「佐野。」
「は。」
「少し参れ。」
珍しいことであった。
稽古の後に上泉が一人だけ呼び止めることなど滅多にない。
佐野は木刀を携え、師の後に従った。
庭の隅、人目の少ない松の木陰で上泉は足を止める。
しばらくは空を見上げていた。
高く北斗が旋回し、低く標が御所の屋根伝いに巡っている。
その姿を見届けると、上泉は穏やかに口を開いた。
「今が好機だ、佐野。」
「……好機、にございますか。」
「うむ。」
上泉は静かに頷く。
「襲撃騒ぎの余波で御所の警固はかつてなく固い。」
「晴れた日には、新田殿が見張りを務め、天には北斗と標がおる。」
「敵も一度あの二羽に痛い目を見ておるゆえ、容易には近づくまい。」
佐野も空を見上げた。
北斗が一声高く鳴く。
まるで御所は空からも見守られているかのようであった。
「乱世にも、こうして静かな日がある。」
「だからこそ、その時を無駄にしてはならぬ。」
上泉は木刀をゆっくりと抜き放った。
「佐野。」
「そなたの剣は完成に近い。」
「受けに長け、相手を見極め、自在に攻めへ転じる。」
「わしでも安心して背を預けられる剣だ。」
佐野は深く頭を下げる。
しかし上泉は木刀を佐野へ向けた。
「だが、一つだけ足りぬ。」
「……。」
「そなたは敵を待つ。」
「相手が攻めてきてから崩す。」
「それは見事な剣だ。」
「されど、戦には待てぬ時がある。」
上泉の眼差しが鋭くなる。
「将軍を守る時。」
「姫を逃がす時。」
「一刻も早く敵陣を裂かねばならぬ時。」
「その時に必要なのは、受けではない。」
一歩。
上泉が踏み込む。
空気が震えた。
「自ら仕掛けよ。」
さらに一歩。
「敵の勢いを断ち切り。」
「一撃で散らし。」
「道をこじ開ける。」
木刀は寸前で佐野の額に止まった。
「その一太刀を見つけよ。」
「一人を倒すためではない。」
「守るべき者のために、敵陣を切り裂く剣だ。」
佐野はその木刀を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「……一撃で、道を切り開く。」
「はい。」
上泉は木刀を納め、穏やかな笑みを浮かべる。
「それが見つかれば、そなたの剣はもう一段高みへ至る。」
その時だった。
高く舞っていた北斗が、鋭く一声鳴いた。
標もそれに応じるように旋回する。
新田政景が空を見上げ、小さく笑う。
「見よ、あの二羽も退屈しておる。」
「敵が来ぬのは結構なことだ。」
上泉も空を仰ぎ、静かに言った。
「戦のない日にしか磨けぬ剣がある。」
「佐野、この晴れ間を無駄にするな。」
その言葉は、佐野昌綱の胸に深く刻まれた。やがて訪れる乱世の激流を切り開くための、新たな剣を求める修練は、この梅雨の束の間の青空の下で始まろうとしていた。




