五月雨の贈り物
御所襲撃未遂から数日。
京には初夏の陽気が訪れていたが、空は重く、遠く東山には雨雲が垂れ込め始めていた。
梅雨が近い。
それ以上に都を覆っていたのは、人々の不安であった。
三好家中の混乱。
市中に潜む浪人。
御所を狙った襲撃未遂。
それらの噂が京中を駆け巡り、義輝は御所の警備を一段と厳しくしていた。
門という門には奉公衆と儀仗抜刀隊が立ち、見知らぬ者は一歩たりとも近づけない。
そのため、御所に住まう者たちも自由に外へ出ることはできなくなっていた。
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ある日の午後。
雨を含んだ風が縁側を吹き抜ける。
義輝の妹は庭を眺めながら、小さくため息をついた。
「兄上。」
「どうした。」
「寺の紫陽花が見頃だと女房たちが申しておりました。」
義輝は静かに耳を傾ける。
「一度見てみたかったのですが……。」
そう言って空を見上げる。
「今は外へ出られませんものね。」
義輝は苦笑した。
「すまぬ。」
「今だけは許せ。」
「都はまだ安全とは申せぬ。」
姫は微笑み、
「承知しております。」
と言ったものの、その表情には少し寂しさが残っていた。
その様子を、離れた場所で警護していた佐野昌綱が見ていた。
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翌朝。
佐野は警護へ向かう途中、小さな寺へ立ち寄った。
住職へ事情を話すと、
「それならば。」
と庭の紫陽花を数枝分けてくれた。
青。
紫。
薄紅。
雨露をまとった花々は、それだけで都の憂いを忘れさせる美しさがあった。
佐野は御所へ戻ると花瓶を借り、一本一本丁寧に活ける。
武人らしからぬ細やかな手つきだった。
それを姫へ届ける。
「寺ほどではございませんが。」
「せめて御所でも季節をご覧いただければと。」
姫は目を丸くした。
「まあ……。」
花へ顔を寄せる。
雨露がまだ葉に残っている。
「綺麗……。」
思わず零れたその一言に、佐野も自然と笑みを浮かべた。
「雨の日ほど美しく咲く花だそうです。」
「しばし、お慰めになれば幸いです。」
姫は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「こんな贈り物は初めてです。」
その様子を見ていた義輝も穏やかに笑う。
「佐野。」
「武だけでなく人の心も守るか。」
「見事である。」
佐野は照れたように頭を掻いた。
「武とは、人を生かすためにあるものと思っております。」
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その日の夕刻。
佐野が縁側から庭を眺めていると、不意に影が横切った。
一羽。
いや、二羽。
大きな鷹が御所の上空を悠々と旋回している。
一羽は雄々しく堂々と翼を広げ、
もう一羽は流れるような身のこなしで、その周囲を舞っていた。
「北斗……。」
「標か。」
佐野は思わず立ち上がる。
その直後だった。
御所の門番が声を張り上げる。
「鹿島商館より急使!」
急使は膝をつき、一通の書状を差し出した。
佐野が封を切る。
そこには氏治らしい、簡潔な文があった。
> 京の空穏やかならず。
大軍を送れば事を荒立てる。
故に密かに助けを遣わす。
北斗、標、そして新田政景を送る。
読み終えた佐野は思わず笑った。
「殿らしい。」
義輝も興味深そうに尋ねる。
「援軍か。」
「はい。」
「万の兵より頼もしい援軍にございます。」
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翌日。
御所の門前へ一人の武者が現れた。
質素な旅装。
腰には実戦で使い込まれた刀。
その後ろには鷹匠とともに北斗と標が控えている。
門番が名乗りを取り次ぐ。
「坂東小田家臣――」
「新田政景殿、ご到着。」
その名が広間へ響いた瞬間、足利方の空気がわずかに張り詰めた。
「……新田。」
「新田姓だと。」
奉公衆が顔を見合わせる。
足利と新田。
ともに源氏嫡流として争った往時の歴史が、一瞬だけ彼らの脳裏をよぎったのである。
しかし、その沈黙を破ったのは義輝だった。
義輝は声を上げて笑う。
「何を構える。」
家臣たちは姿勢を正す。
「足利も新田も、もとは同じ一族郎党。」
「昔は坂東で刃を交えたこともあろう。」
「されど、それは遠き昔のこと。」
義輝は新田政景へ歩み寄る。
「その足利と新田が、坂東を離れ、幾百年を経て京で再び並び立つとは。」
「誠に吉日ではないか。」
新田政景は深く膝をついた。
「新田政景、小田左京大夫氏治公の命により参上いたしました。」
「将軍家と朝廷をお守りするため、この命、お預けいたします。」
義輝は満足そうに頷いた。
「歓迎する。」
「今日よりそなたも、この御所を守る同志である。」
その言葉に広間の緊張は解ける。
縁側では北斗が静かに佐野の腕へ舞い降り、標は庭木の枝へ止まって京の空を見渡していた。
氏治は兵を送らなかった。
だが、一人の将と二羽の鷹。
それだけで御所に集う誰もが感じていた。
――この援軍は、万の兵にも勝る心強さである、と。




