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一つの願い、二つの宿題

秋深まる頃、宇都宮から帰った氏治たちは無事に小田城へ戻った。


父・政治や家臣たちは、氏治の無事な帰還を喜び、その成長した姿に目を細める。


しかし、氏治を待っていたのは、それ以上に嬉しい知らせだった。


「若君、お帰りなさいませ。」


広間へ現れたのは宍戸政繁。


相変わらず日に焼け、猫背で土の匂いをまとっている。


だが、その表情は以前よりもずっと明るかった。


「留守の間にも、国は少し変わりました。」


そう言って政繁は一枚の絵図を広げる。


「若君から頂いた鴨を放した田でございます。」


黄金色に実った稲穂が、一面に広がっていた。


「虫を食い、草を食い、田を荒らさず育ってくれました。」


「今年は例年より収穫が多く、村人たちは驚いております。」


「いつしか村では、この田を『鴨新田』と呼ぶようになりました。」


氏治は嬉しそうに微笑む。


「良い名前ですね。」


政繁はさらに続けた。


「若君より教わった味噌と醤も評判です。」


「藻塩も作り始めました。」


「鹿島から仕入れた海魚を味噌や醤で保存し、霞ヶ浦沿いへ運びます。」


「湖の魚や米は逆に鹿島へ。」


「船が絶えず行き交い、常陸の商いが目に見えて盛んになりました。」


政治も感心したように頷く。


「海と湖が一つになったか。」


「はい。」


「商人も漁師も百姓も皆、忙しく働いております。」


政繁は照れくさそうに頭をかいた。


「それから……。」


「娘が大掾家へ嫁ぐことになりました。」


広間がどよめく。


「ほう。」


「政繁殿の娘か。」


家臣たちは興味津々だった。


やがて控えていた娘が姿を見せる。


透き通るような白い肌に、凛とした美しさ。


誰もが息をのんだ。


「……政繁殿に似ておらぬな。」


真壁幹久が思わず漏らす。


政繁は苦笑いした。


「母親似でございます。」


広間は笑いに包まれた。


「息子も鹿島衆より嫁を迎えます。」


「これで鹿島と霞ヶ浦は、縁でも結ばれます。」


政治は満足そうに頷く。


「交易だけでなく、人の縁まで結んだか。」


「見事だ。」


氏治は静かに口を開いた。


「宍戸殿。」


「お願いがあります。」


政繁は姿勢を正す。


「何なりと。」


氏治は人差し指を立てる。


「一つだけです。」


「承知しました。」


「紙を作ってください。」


政繁は目を丸くした。


「紙……でございますか。」


「はい。」


「木でも草でも構いません。」


「安く、たくさん作れる紙です。」


家臣たちは首をかしげる。


氏治は穏やかに続けた。


「収穫を書き。」


「商いを書き。」


「約束を書き。」


「人の記憶は薄れます。」


「でも、紙は国の記憶になります。」


政治は静かに頷いた。


「なるほど……。」


「国を治めるにも役立つな。」


政繁も力強く頷く。


「やってみましょう。」


「失敗を恐れず試してみます。」


氏治は嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます。」


そして、少し照れながら続ける。


「それと……。」


「もう一つだけ。」


政繁は吹き出した。


「若君。」


「一つではなかったので?」


広間はどっと笑う。


氏治も頭をかきながら笑った。


「そうでした。」


「今度こそ最後です。」


「酒を蒸してみてください。」


「蒸す?」


「はい。」


「酒を温め、その湯気を冷やして集めるのです。」


「どんな酒になるか、私にも分かりません。」


「でも、きっと面白いものになります。」


政繁の目が輝く。


「分からぬからこそ、試す価値がありますな。」


「その通りです。」


「たくさん失敗してください。」


「一つでも成功すれば、それで十分です。」


政繁は深々と頭を下げた。


「若君。」


「田を耕せと言われると思っておりました。」


「ところが紙を作れ。」


「酒を蒸せ。」


「若君のお考えは、いつも私の想像の先にございます。」


氏治は穏やかに笑った。


「宍戸殿ならできます。」


「私は知恵の種をまくだけです。」


「育てるのは、宍戸殿と、この国に生きる皆です。」


政繁は目を潤ませながら答えた。


「承知いたしました。」


「この宍戸政繁、小田のため、常陸のため、生涯をかけて挑み続けます。」


その言葉に広間は大きな拍手と笑顔に包まれた。


秋風は実りの香りを運ぶ。


鴨新田から始まった小さな知恵は、やがて紙となり、酒となり、人と人を結び、常陸の未来を大きく変えていくことになる。

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