京に張り巡られた蜘蛛の巣
摂津から丹波へ、三好方の軍勢が動いた。
その報せが京へ届いたのは、まだ夜の冷気が町の軒下に残る早朝であった。
兵の数は定かではない。
千とも二千ともいわれ、摂津北部の諸城から集められた軍勢が、山崎を避けて丹波口へ向かっているという。
丹波の国人衆を討つためとも、将軍方と結んだ者を罰するためとも噂された。
だが、目的を知る者はいなかった。
分かっているのは、三好方の旗を掲げた兵が、京の西北へ進んでいることだけであった。
「丹波を取られれば、京の背後を押さえられるぞ」
「いや、丹波から兵を回し、御所を囲むつもりではないか」
「松永殿が動いたのではないか」
人々は口々に噂した。
将軍御所では、諸門の警固が増やされた。
奉公衆は鎧を着込み、使番が絶えず出入りした。
市中では商家が戸を閉め、寺社は門前に人を立たせた。
京は戦の音を聞く前から、すでに戦の顔をしていた。
その最中だった。
今井宗及の店が襲われた。
昼を少し過ぎた頃、客を装った男たちが店へ入り込んだ。
表では商談を求め、奥へ通されるや否や、隠し持っていた刃物を抜いた。
同時に裏口からも数人が押し入った。
狙いは金ではなかった。
棚に並ぶ南蛮渡りの品も、蔵に積まれた銭箱も、ほとんど手をつけられていない。
男たちは帳面を荒らし、書状箱を奪おうとし、止めに入った手代を斬りつけた。
さらに、店先へ火を放とうとした。
近くを巡回していた抜刀隊が駆けつけると、襲撃者たちは抵抗もせず、路地へ散った。
宗及は無事だった。
だが、手代二人が負傷し、店内は血と割れた器で覆われた。
知らせを受けた水戸頼家は、ただちに市中の警戒を命じた。
「宗及殿の店だけとは限らぬ。鹿島商館にも人を回せ」
「堺衆と縁のある店を見張れ。火付けにも備えよ」
北畠具教も抜刀隊を分け、主要な橋、辻、商家へ配置した。
三好軍が丹波へ動き、京の商人が襲われた。
次に何が起きるか、誰にも分からない。
民が怯えている以上、市中の見回りを減らすこともできなかった。
御所へ置かれていた抜刀隊も、次々に町へ回された。
佐野昌綱は、宗及の店の前に立っていた。
戸板に血の跡が残り、通りには人だかりができている。
宗及は額に汗を浮かべながらも、負傷者の手当てを指示していた。
「昌綱殿、面目ない」
「宗及殿が詫びることではございませぬ」
佐野は店内を見回した。
壊された棚。
引き裂かれた帳面。
奪われかけた書状箱。
火をつけるために持ち込まれた油。
金品を目的とした盗賊ではない。
だが、宗及を殺すことだけが目的ならば、あまりにも騒ぎが大きい。
佐野は、床に落ちた油壺を見つめた。
宗及が問うた。
「何かお気づきに?」
佐野はすぐには答えなかった。
脳裏に浮かんだのは、奈良口での襲撃だった。
行商人に扮した一団。
前後から挟み込む敵。
人目を引く襲撃の陰に潜む、別の刃。
敵は一つの目的だけでは動かない。
目立つ場所へ人を集め、その間に本命を狙う。
「水戸殿はどちらへ」
「四条方面の見回りへ向かわれました」
「北畠殿は」
「鹿島商館へ」
佐野は店の外へ出た。
丹波へ進む三好軍。
宗及の店への襲撃。
市中へ散らされた抜刀隊。
三つの出来事が、一本の糸で結ばれた。
佐野は振り返った。
「宗及殿。店の者を中へ入れ、戸を閉めてください」
「昌綱殿はどちらへ」
「御所へ戻ります」
宗及が目を見開いた。
「御所には奉公衆がいるはずでは」
「いるからこそ、狙われます」
佐野は供の者を呼び寄せた。
「水戸殿と北畠殿へ伝えよ。市中の騒ぎは陽動の恐れあり。されど全軍を戻してはならぬ。それも敵の狙いかもしれぬ」
「昌綱様は」
「先に行く」
佐野は馬へ飛び乗った。
供はわずか四人。
京の大路を、御所へ向かって駆けた。
その頃、丹波へ向かう三好軍の後方では、奇妙な動きが起きていた。
軍勢は確かに西北へ進んでいた。
だが、その列には、正規の兵とは異なる一団が紛れ込んでいた。
具足も旗印も三好方のもの。
しかし隊伍は乱れ、顔を隠す者が多い。
彼らは行軍の途中、少しずつ列を離れた。
十人。
二十人。
さらに別の道から加わる者もいた。
やがて五十人近い一団となり、京の北側を回り込んだ。
目指しているのは丹波ではなかった。
将軍御所であった。
市中の警戒が宗及の店周辺へ集中し、抜刀隊が各所へ分散した時刻を見計らったかのように、彼らは御所へ通じる道を進んだ。
だが、その途中にある小さな橋の上に、一人の老人が立っていた。
破れた法衣。
古びた笠。
背には琵琶。
手には杖。
どこにでもいる、流浪の琵琶法師に見えた。
一団の先頭にいた男が怒鳴った。
「退け、坊主」
老人は動かなかった。
橋の中央に立ち、わずかに顔を傾ける。
見えていないかのように、焦点の合わぬ目を伏せていた。
「ここより先へは、何用でございましょう」
「貴様に関わりのないことだ」
「なるほど」
老人は静かに頷いた。
「では、私にも退く理由はございませぬな」
男が刀へ手をかけた。
「斬れ」
二人が同時に踏み込んだ。
その瞬間、老人の杖が跳ね上がった。
一人の手首を打ち、抜きかけた刀を落とす。
返す杖がもう一人の喉元へ入り、その身体を橋板へ転がした。
後ろにいた男たちが一斉に刀を抜く。
老人は背負っていた琵琶を橋の端へ置いた。
腰を落とし、杖を逆手に持つ。
「急いでおられるようですな」
老人――空蝉は、かすかに笑った。
「ならば、急いで私を越えてくだされ」
敵が押し寄せた。
橋は狭い。
一度に空蝉へ斬りかかれるのは二人か三人。
空蝉は斬撃を杖で受けず、身体をわずかにずらしてかわした。
衣の端を刃が裂く。
次の瞬間には敵の懐へ入り、肘を打ち、膝を蹴り、喉へ杖を突き込む。
橋から川へ落ちる者。
仲間にぶつかって倒れる者。
空蝉は一歩も退かなかった。
しかし敵もただの浪人ではなかった。
前の者が倒れれば後ろの者が押し出され、空蝉に息をつかせない。
一人が橋の欄干へ飛び乗り、横から斬りかかった。
空蝉は音だけで刃の軌道を捉え、身を沈めた。
刀が笠を斬り飛ばす。
白髪混じりの頭が現れた。
その頭上を通り過ぎた腕を空蝉はつかみ、勢いのまま男を川へ投げ落とした。
だが、別の槍が脇腹をかすめた。
空蝉の法衣に血がにじむ。
それでも老人は笑っていた。
「どうされました」
杖の先で橋板を打つ。
乾いた音が響く。
「老人一人を越えられぬようでは、将軍の御首には届きませぬぞ」
その言葉に、敵の顔色が変わった。
空蝉は確信した。
狙いは御所。
宗及の店も、丹波への進軍も、すべてはこの一団を御所へ近づけるための目くらましだった。
しかし、敵の一部は橋の手前で分かれ、川沿いの細道へ走り出した。
空蝉は舌打ちした。
すべてを一人で止めることはできない。
「昌綱殿」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「お気づきであれば、そろそろ来られる頃でしょう」
馬蹄の音が響いた。
細道へ入った一団の前方から、馬が駆け込んでくる。
先頭の騎馬武者は、敵の姿を見るや手綱を引いた。
馬がいななき、前脚を上げる。
佐野昌綱は鞍から飛び降りると、着地と同時に刀の柄へ手を置いた。
敵が足を止めた。
「何者だ」
佐野は答えなかった。
敵の具足を見る。
三好方の紋。
だが、軍勢から離れて御所へ向かう理由はない。
「御所へ何用か」
「将軍家へ急ぎの申し入れがある」
「ならば、なぜ正門へ使者を立てぬ」
男たちは互いに顔を見合わせた。
佐野は静かに腰を落とした。
鯉口を切る。
「答えられぬなら、ここから先へは通さぬ」
敵の一人が叫んだ。
「やれ!」
三人が同時に駆け出した。
佐野は動かなかった。
間合いへ入った瞬間、刀が走った。
最初の男の刀が根元から弾かれ、宙を舞う。
返す刃の峰が二人目の肩を打ち、骨の砕ける音がした。
三人目が横から斬り込む。
佐野は鞘を引きながら身体を回し、刀の鍔元で相手の手首を打った。
刃が落ちる。
そのまま柄頭を顎へ叩き込み、男を倒した。
後ろから槍が突き出された。
佐野は半歩だけ踏み込み、槍先が伸び切る前に柄を斬り上げた。
槍が跳ねる。
敵の胸元へ肩からぶつかり、路地の壁へ叩きつけた。
供の四人も追いつき、左右から敵を押さえた。
それでも敵は退かなかった。
御所へ向かうことだけを考えているかのように、倒れた仲間を踏み越えて進もうとする。
佐野は一人の襟をつかみ、地面へ投げ伏せた。
「生け捕れ!」
供の者が男の腕をねじり上げる。
残った者たちの動きが、一瞬止まった。
捕らえられた男は、歯を食いしばった。
佐野は嫌な気配を感じた。
「口を開けさせろ!」
だが遅かった。
男の身体が激しく震えた。
口元から血と泡がこぼれる。
隠し持っていた毒を噛み砕いたのだ。
「吐かせろ!」
供が口へ指を入れようとしたが、男はすでに白目をむいていた。
その死を合図にしたように、残る者たちは一斉に逃げ出した。
御所へ向かう者はいない。
東西の路地へ分かれ、塀を越え、民家の庭へ飛び込んだ。
蜘蛛の子を散らすような逃げ方だった。
佐野は二人を追って路地へ入った。
一人を斬り伏せ、もう一人を壁際へ追い詰める。
「刀を捨てよ!」
男は笑った。
次の瞬間、自ら刀を喉へ突き立てた。
佐野が駆け寄った時には、すでに息絶えていた。
ほかの者たちも同じだった。
捕まりそうになると自害する。
ある者は毒を飲み、ある者は喉を突き、ある者は川へ身を投げた。
生きたまま捕らえられた者は、一人もいなかった。
やがて水戸と北畠が兵を率いて到着した。
橋の上には倒れた敵が折り重なり、空蝉が欄干にもたれていた。
法衣は裂け、脇腹から血を流している。
その傍らには、傷一つない琵琶が置かれていた。
佐野が駆け寄った。
「空蝉殿!」
「遅うございましたな」
空蝉は息を切らしながら笑った。
「これでも老人でございます。五十人は少々、骨が折れました」
「傷を見せてください」
「かすり傷にございます。それより、御所は」
「無事です。郎党の大半はここで止めました」
「大半は、ですか」
空蝉は顔を上げた。
佐野は険しい表情で頷いた。
「捕らえた者は自害しました。残りも散り散りに逃げています」
水戸が橋の上に落ちた敵の刀を拾った。
「三好方の具足に、三好方の刀。これでは三好の仕業としか見えぬ」
北畠は倒れた者の懐を探った。
書状も、印判もない。
身元を示す物は、何一つ残されていなかった。
「用意がよすぎる」
北畠が低く言った。
「初めから、死ぬことまで決めていた者たちだ」
空蝉は首を横へ振った。
「三好方の兵に見せることと、三好方の命を受けていることは、同じではございませぬ」
水戸が眉をひそめる。
「では、何者だ」
「分かりませぬ」
空蝉は橋の向こうへ顔を向けた。
「丹波への侵攻は、恐らく偽りではございません。兵は実際に動いております」
「だが本気で丹波を攻めるつもりはない」
佐野が続けた。
「軍を動かすことで京中を怯えさせる。その隙に宗及殿の店を襲い、抜刀隊を市中へ引き離す」
北畠が言う。
「そして御所を襲う」
「はい」
佐野は路上に転がる三好方の旗を見下ろした。
「これは戦ではございません。誰かが戦の姿を借りて、将軍様を狙ったのです」
水戸は唇を噛んだ。
「また逃したか」
佐野は答えなかった。
奈良口でも、襲撃者は正体を明かさず死んだ。
今回も同じだった。
敵は姿を見せる。
だが、背後にいる者へつながる糸だけは、必ず自ら断ち切る。
空蝉が呟いた。
「蜘蛛ですな」
佐野が振り返る。
「蜘蛛?」
「姿を見せず、糸だけを張る」
空蝉は、地面に落ちた三好の旗を杖で指した。
「我らが斬ったのは、巣の端に触れた小さな虫にすぎませぬ」
「では、蜘蛛はどこにいる」
水戸の問いに、空蝉は静かに首を横へ振った。
「まだ見えませぬ」
遠くで鐘が鳴った。
騒ぎを知らせる鐘か。
戦の到来を告げる鐘か。
京の町には、まだ宗及の店を襲った者が潜んでいる。
丹波へ向かった軍勢も止まってはいない。
御所を襲おうとした一団の正体も分からない。
ただ一つ、はっきりしたことがあった。
敵は将軍義輝の命を狙っている。
しかも、御所へ正面から軍を差し向けるのではない。
噂を流し、人を動かし、守りを薄くし、味方と敵の区別さえ曖昧にしたうえで、闇の中から刃を差し込んでくる。
佐野は刀を鞘へ収めた。
澄んだ金属音が、橋の上に響いた。
「次も来ます」
誰に向けるでもなく、佐野は言った。
「今日よりも大きな騒ぎを起こし、今日よりも多くの人を惑わせて」
空蝉は琵琶を背負い直した。
「その時、我らが本命を見誤れば」
佐野は御所の方角を見た。
「将軍様は討たれます」
春の京に、冷たい風が吹き抜けた。
丹波へ向かう軍勢は、なおも進んでいた。
だが、その進軍が何のためであったのか、まだ誰にも分からなかった。




