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幽鬼の報せ

春の夕暮れ。


嵐山から戻った御所には、穏やかな空気が流れていた。


将軍家の姫は侍女に付き添われ、自室へと戻る。


襖を閉める間際、姫はもう一度だけ振り返り、庭先に立つ佐野昌綱へ小さく微笑んだ。


「昌綱殿。」


佐野は一礼する。


「本日は誠にありがとうございました。」


「竹林も、お寺も、渡月橋も……何もかも初めてでございました。」


「御所では決して味わえぬ、夢のような一日でございました。」


佐野は穏やかに答えた。


「姫様にお楽しみいただけたのであれば、それ以上の喜びはございません。」


姫は嬉しそうに頷いた。


「また、機会がございましたら。」


「その折も、どうぞよろしくお願いいたします。」


そう言い残し、姫は静かに自室へ下がっていった。


御所には再び静寂が戻る。


その穏やかな空気を破るように、一人の老人が門前へ現れた。


粗末な着物に杖をつき、背を丸めた老人。


どこにでもいるような老翁である。


しかし佐野は、その姿を見た瞬間、小さく目を細めた。


「……空蝉殿。」


老人は口元だけで笑った。


「見破られたか。」


「昌綱殿の目は、ますます鋭くなられた。」


佐野は静かに一礼する。


「何かございましたか。」


空蝉は周囲を見回し、声を潜めた。


「ちょうど良い頃合いだと思いましてな。」


「将軍家にも耳に入れていただきたいことがございます。」


佐野の表情が引き締まる。


「承知しました。」


「ご案内いたします。」


ほどなくして、空蝉は義輝の前へ通された。


老人は深く平伏する。


義輝はその姿を見つめ、やがて静かに笑った。


「その気配……忘れるものか。」


「天覧試合で昌綱と死闘を演じた御仁であろう。」


空蝉は顔を上げた。


「お見知りおきいただき、恐悦にございます。」


「空蝉と申します。」


義輝は頷いた。


「昌綱より名は聞いておる。」


「面を上げよ。」


空蝉は姿勢を正した。


義輝は佐野を見た。


「昌綱が信を置く者ならば、余も信じよう。」


「申してみよ。」


空蝉は静かに語り始めた。


「まず、お断り申し上げます。」


「これより申し上げることには、事実と、私自身の推測がございます。」


「証のあるものと、まだ証のないものを分けてお話しいたします。」


義輝は静かに頷いた。


「よい。」


「続けよ。」


空蝉はゆっくりと口を開く。


「三好長慶殿のお身体は、確かに悪うございます。」


佐野も義輝も黙って耳を傾けた。


「これは風聞ではございません。」


「私が奈良でともに医学を学んだ旧友、水無瀬道石殿が診ております。」


「道石殿の見立てでは、長慶殿は日に日に衰弱しておられます。」


義輝は腕を組んだ。


「その医師は信用できるのか。」


「はい。」


「武家にも公家にも偏らぬ人物にございます。」


「診立てを偽るような男ではございません。」


義輝は静かに息を吐いた。


「……そうか。」


宿敵ではあった。


だが、一代の英傑が病に伏していると聞けば、胸に去来するものもある。


空蝉は続けた。


「ここまでは事実にございます。」


「ですが。」


座敷の空気がわずかに変わる。


「ここからは、私の見立てです。」


佐野も身を乗り出した。


空蝉は畿内の絵図を広げる。


指先は阿波から讃岐、そして四国方面をゆっくりとなぞった。


「長慶殿の病状と、家中の動きが噛み合っておりません。」


義輝が眉をひそめる。


「どういうことだ。」


「長慶殿ほどのお方が、あれほど身体を悪くされているのであれば、本来ならば畿内を固め、家中を鎮めることを第一とするはずです。」


「しかし。」


空蝉の指が四国を叩く。


「四国では三好方の軍勢が活発に動いております。」


「病の主君を抱える家とは思えぬほどでございます。」


佐野が静かに尋ねる。


「誰かが、長慶殿に代わって動かしていると。」


空蝉は首を横へ振った。


「そこまでは申せません。」


「証がございません。」


「ですが。」


「病と軍の動きが、どうにも一致いたしませぬ。」


「違和感がございます。」


義輝は黙って絵図を見つめていた。


空蝉はさらに続ける。


「もう一つございます。」


「長慶殿の周囲では、重臣が戦や病で相次いで世を去っております。」


「一つひとつは偶然かもしれません。」


「しかし、あまりにも重なりすぎております。」


佐野が静かに口を開く。


「黒幕がいる、と。」


空蝉は即座に否定した。


「いいえ。」


「私はそのようなことは申しませぬ。」


「見聞方が推測を事実として語れば、それは流言と変わりませぬ。」


「私が申し上げられるのは、違和感だけでございます。」


義輝は感心したように笑った。


「なるほど。」


「ゆえに昌綱も、おぬしを信じるのだな。」


空蝉は静かに頭を下げた。


「私がお伝えしたいのは、一つだけ。」


「長慶殿そのものではなく、その周囲をご警戒ください。」


「主が病に伏せば、家臣はそれぞれの思惑で動き始めます。」


「忠義もあれば、野心もございます。」


「その時こそ、世は最も乱れます。」


座敷は静まり返った。


義輝はしばらく考え込むように目を閉じ、やがてゆっくりと頷いた。


「よく分かった。」


「耳に入れておこう。」


空蝉は深々と頭を下げる。


「それで十分にございます。」


誰も気づいてはいなかった。


この日の報告が、数年後、将軍家を襲う未曽有の悲劇への、静かな前触れであったことを。

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