春の終わり、幽鬼の報せ
春風は桂川を渡り、嵐山の竹林を優しく揺らしていた。
町娘の装いをした将軍家の姫は、佐野昌綱とともに人混みの中を歩いていた。
「まあ……。」
姫は思わず足を止める。
青々と伸びる竹が風に鳴り、その音だけが静かな山道へ響いていた。
「これが嵐山の竹林……。」
「なんと美しいのでしょう。」
佐野は一歩後ろから静かに見守る。
「ごゆるりとご覧ください。」
姫はまるで幼子のように嬉しそうに竹林を見上げ、寺へ参れば手を合わせ、庭園では池を泳ぐ鯉を眺めて微笑んだ。
御所では決して見せぬ、年相応の表情であった。
途中、小さな茶屋へ立ち寄る。
店の老婆は二人を旅の若夫婦と思ったのか、人懐こく笑って言った。
「今日はよう歩かれましたな。」
「冷やし飴はいかがです?」
佐野は姫の顔を見る。
姫は少し戸惑いながらも、小さく頷いた。
竹筒に注がれた冷やし飴を口に含むと、優しい甘さが喉を潤した。
「……美味しい。」
思わず漏れた一言に、老婆は嬉しそうに笑う。
「京の味どす。」
姫は何度も頷きながら、ゆっくりと飲み干した。
「御所ではいただいたことのない味です。」
「今日という日を忘れることはないでしょう。」
その頃。
表には姿を見せぬ護衛たちが静かに動いていた。
水戸頼家率いる儀仗抜刀隊は人波へ溶け込み、
北畠具教は帰路を警戒し、
吉田兄弟と剣友会の者たちは寺社や街道で不審者へ目を光らせる。
そして空蝉は――。
老人に姿を変え、橋のたもとで旅人のように腰を下ろしていた。
誰一人として、それが天覧試合で佐野と激戦を演じた幽鬼とは気づかない。
一日は何事もなく過ぎた。
夕刻、一行は御所へ戻る。
御所の門をくぐると、姫は佐野へ向き直った。
「昌綱殿。」
佐野は静かに頭を下げる。
「はい。」
姫は深々と一礼した。
「本日は、本当にありがとうございました。」
「今日ほど自由に京を歩いた日は、生まれて初めてでございます。」
「皆が私を姫としてではなく、一人の娘として見てくれました。」
「それも、昌綱殿のお心遣いのおかげです。」
佐野は恐縮したように首を振る。
「私は務めを果たしたまでにございます。」
姫は柔らかく微笑んだ。
「それでも……。」
「また機会がございましたら、ご一緒してくださいませ。」
そう言い残し、侍女とともに自室へと下がっていった。
御所には、再び静かな夕暮れが訪れる。
しかし、その穏やかさとは裏腹に、一つの影が音もなく現れた。
「ちょうどよい頃合いだ。」
どこからともなく聞こえた声に、佐野が振り返る。
そこには、一人の老人が立っていた。
杖をつき、背を丸めた、どこにでもいるような老翁。
だが、その眼だけは鋭く光っている。
「……空蝉殿。」
老人はわずかに口元を緩めた。
「今日は実に良い日であった。」
「だからこそ、耳に入れておくべき話がある。」
佐野は頷き、そのまま老人を御所の奥へ案内する。
義輝はすぐに面会を許した。
老人が座敷へ入ると、義輝はその姿を一目見て静かに笑う。
「その気配……忘れようもない。」
「天覧試合で昌綱と渡り合った御仁だな。」
老人は背筋を伸ばすと、先ほどまでの老いを感じさせぬ所作で深く一礼した。
「空蝉にございます。」
「本日は将軍家に、一つ耳に入れていただきたいことがございます。」
義輝は表情を引き締める。
「申してみよ。」
空蝉はゆっくりと顔を上げた。
「――三好長慶殿の近況について、でございます。」




