将軍の願い、春の嵐山
四月。
京の都は冬の寒さを忘れ、やわらかな春の日差しに包まれていた。
御所の庭では桜が風に舞い、白砂の上へ淡い花びらが静かに降り積もる。人々の装いも冬から春へと変わり、都全体がどこか穏やかな空気に満ちていた。
京へ召し出されてから数か月。
佐野昌綱は、今では足利将軍家にもすっかり馴染んでいた。
毎日のように御所へ出入りし、義輝とは剣を語り、兵法を論じ、ときには茶を囲んで笑い合う。
最初こそ「坂東武者」と珍しがられていた佐野も、その実直な人柄と礼法、そして武芸によって、今では将軍家の人々からも信頼を寄せられる存在となっていた。
その日も佐野は義輝の私室へ招かれていた。
襖が静かに開く。
「佐野昌綱、参上いたしました。」
深く一礼すると、義輝は笑顔で手を上げた。
「そう固くなるな、昌綱。」
「今日は戦の話でも政の話でもない。」
「もっと気楽な頼みだ。」
佐野は顔を上げた。
「どのようなご用件でしょうか。」
義輝は少し照れたように笑う。
「実はな……妹のことだ。」
「妹、でございますか。」
「うむ。」
義輝は庭へ目を向けた。
「今年で十六になる。」
「幼い頃より御所の中で育ち、将軍家の姫として大切に守られてきた。」
「縁談の話もあるが、まだ良縁には恵まれず、今も余のもとにおる。」
義輝は苦笑した。
「近頃、『一度でよいから嵐山を見てみたい』と申しておってな。」
佐野は静かに耳を傾ける。
「余が供を連れて行けば大行列になる。」
「将軍が動けば、町は騒ぎになる。」
「供回りばかりでは、妹も気疲れする。」
義輝は佐野の目を真っすぐ見た。
「そこで頼みがある。」
「妹の警護を、おぬしに任せたい。」
しばし沈黙が流れる。
佐野はゆっくりと頭を下げた。
「光栄にございます。」
「しかし――。」
義輝が首をかしげる。
「しかし?」
「数日、お時間を頂戴したく存じます。」
義輝は少し意外そうな顔をした。
「準備か。」
「はっ。」
佐野は静かに答えた。
「姫様をお預かりする以上、護衛は万全でなければなりません。」
「護衛とは、敵を斬ることではございません。」
「危険そのものを近づけぬことにございます。」
義輝は腕を組み、その言葉を噛み締めるように頷いた。
「なるほど。」
「だからおぬしに頼んだのだ。」
「おぬしならば、妹を安心して任せられる。」
佐野は再び一礼した。
「必ずや、ご期待にお応えいたします。」
義輝は嬉しそうに笑う。
「では数日後、嵐山へ向かう。」
「妹には町娘の装いをさせる。」
「おぬしは案内役として同行せよ。」
「承知いたしました。」
佐野は部屋を辞した。
御所を出ると、春風が桜の花びらを運んできた。
佐野は立ち止まり、空を見上げる。
「将軍家の姫君……。」
「一歩も誤ることは許されぬ。」
その瞳には、剣豪としての鋭さではなく、一人の護衛としての覚悟が宿っていた。
佐野は真っ先に信濃屋へ向かう。
水戸頼家、北畠具教、そして空蝉。
さらに吉田兄弟ら剣友会。
京で築いたすべての縁を頼り、見えない護衛網を張るためであった。
春の穏やかな陽射しの下。
誰も知らぬところで、一人の姫を守るための周到な準備が、静かに始まろうとしていた。




