三月、近衛前久の謝意
永禄七年三月。
春の気配が御所を包み始めた頃、一人の公卿が御所へ姿を現した。
近衛前久である。
将軍足利義輝は立ち上がり、笑みを浮かべて迎えた。
「前久殿、よく参られた。」
「ご無沙汰しております、上様。」
二人が親しく言葉を交わす様子を見ていた昌綱へ、前久は歩み寄った。
「佐野昌綱殿、お久しぶりですな。」
「近衛様。ご壮健にございます。」
前久は深々と一礼した。
「まずは礼を申し上げねばなりません。」
「伊勢から大和にかけて、私どもの護衛を務めてくださったこと、今なお忘れてはおりませぬ。あの折は命を救われました。」
昌綱は静かに首を振る。
「氏治公の命に従ったまでにございます。」
「それでも命を懸けて守ってくださったことに変わりはありません。」
そう言うと、前久は供の者へ目配せした。
美しい桐箱が運ばれてくる。
蓋を開けると、精巧な香箱が納められていた。
艶やかな細工が施され、雅やかな意匠は都でも一級の工芸品と分かる。
さらに小さな香包が添えられていた。
「これは……。」
「龍涎香にございます。」
昌綱は思わず息をのむ。
前久は微笑んだ。
「興福寺の大祭で、氏治殿が献上された品を覚えておられますかな。」
「あの香りは、寺中を満たしておりました。」
「その折、私も大いに感銘を受けました。氏治殿ほどの品ではありませぬが、感謝の印としてお受け取りください。」
昌綱はしばらく言葉を失った。
龍涎香は金銀にも比せられるほど貴重な香である。
武士が容易に手にできるものではない。
「……これは過分にございます。」
「いや、あなたならば受け取っていただきたい。武芸を嗜むだけではなく、香を知り、茶を知り、和歌を知る。そうした武士こそ、これからの世には必要でしょう。」
義輝も満足そうに頷く。
「昌綱、良かったな。これは前久殿の真心だ。」
昌綱は香箱を胸に抱き、深く一礼した。
「有り難く頂戴いたします。」
その日、昌綱は改めて感じた。
都には剣だけではない、人と人を結ぶ「礼」と「文化」の力があることを。
そして、その縁を結んでくれたのは、大和で氏治が築いた信頼であった。




