将軍との一太刀
永禄六年(一五六三)一月末。
約束の日を迎え、佐野昌綱は上泉伊勢守を先頭に、吉田兼成・兼盛ら門弟とともに将軍御所へ向かった。
御所では、各流派の剣士が集まり、稽古の支度を整えていた。
佐野の姿を認めるや、あちこちから声が上がる。
「おお、あれが天覧試合の佐野殿。」
「盲目の剣豪・空蝉と渡り合ったという。」
「関東一の剣士とも聞くぞ。」
武芸者たちは次々に佐野を取り囲み、天覧試合の様子や関東の剣について尋ねた。
佐野は一人ひとりに丁寧に礼を返し、謙虚に受け答えをする。
その様子を、上座から一人の男が興味深そうに見つめていた。
足利将軍・義輝である。
義輝は武芸好きとして知られ、自らも剣を執る剣豪将軍であった。
やがて稽古が一段落すると、義輝は静かに立ち上がる。
「佐野昌綱。」
御所が静まり返る。
佐野は進み出て深く頭を下げた。
「はっ。」
義輝は穏やかに笑う。
「天覧試合の折より、そなたとは一度剣を交えてみたいと思っておった。」
「ぜひ、余と稽古願えぬか。」
佐野は膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「将軍家のお望みとあらば、謹んでお受けいたします。」
義輝は満足そうに頷き、自ら真剣を抜いた。
佐野も静かに刀を抜く。
御所の空気が一変する。
互いに礼を交わし、間合いを測る。
先に動いたのは義輝だった。
鋭い踏み込みとともに、裂くような斬撃が走る。
だが佐野は一歩も慌てない。
刃を受け、流し、紙一重で見切る。
無駄な力は一切使わない。
義輝は次々と技を繰り出す。
袈裟、逆袈裟、突き、胴への変化。
そのすべてを佐野は最小限の動きで受け流していく。
今度は佐野が踏み込む。
義輝は受ける。
二人の刃は幾度も交わるが、どちらも一歩も退かない。
御所中が息を呑んで見守っていた。
義輝は楽しそうに笑った。
「見事。」
「では佐野。」
「噂の居合を見せてもらおう。」
佐野は静かに刀を納めた。
そして義輝へ向き直る。
深く。
どこにも隙のない、美しい礼。
その一礼だけで空気が凍りついた。
居並ぶ剣士たちは思わず息を止める。
佐野はゆっくりと腰を落とし、居合の構えを取る。
微動だにしない。
義輝も自然と構えを改めた。
(……違う。)
先ほどまでとは気配がまるで違う。
肌を刺すような静寂。
一歩。
佐野が間合いを詰める。
その刹那だった。
閃光。
抜刀。
義輝は反射だけで刀を合わせる。
甲高い金属音が御所に響いた。
勝負は、一瞬で終わる。
しばらく互いに動かない。
やがて義輝が満足そうに笑った。
「見事。」
佐野も静かに刀を納め、一礼する。
義輝も礼を返した。
しばし沈黙が流れたあと、義輝は周囲を見回して朗らかに笑う。
「さすがは天覧試合で勝ち抜いた剣士。」
「今日は引き分けということにしておこう。」
張り詰めていた空気が一気に和らぎ、見守っていた剣士たちから感嘆の声が漏れる。
「さすが将軍様。」
「互角とは恐れ入る。」
義輝は笑みを浮かべたまま刀を納めようとした。
その時だった。
「……む。」
柄に違和感があった。
そっと確かめる。
目釘が、わずかに緩んでいる。
義輝の表情が一瞬だけ止まる。
立ち合いの前には何の異常もなかった。
義輝は何気ない様子で視線だけを佐野へ向けた。
佐野は静かに刀身を拭い、鞘へ納めている。
その動作は最後まで乱れず、美しい。
(そういうことか。)
義輝は心の中で息をのんだ。
佐野は力任せに斬り結ばなかった。
受け、流し、見切りだけで余の攻めを受け切った。
そして最後の居合。
あの一太刀は、刀身ではなく柄へ衝撃を逃がしたのだ。
だから刀は折れず、刃も大きく損なわず、それでいて目釘だけが緩んだ。
狙ってできる芸当ではない。
義輝は静かに目を閉じ、小さく笑った。
(佐野昌綱……。)
(最後まで、底を見せなかったか。)
義輝は何も言わない。
佐野も何も語らない。
周囲の者たちは、将軍と坂東の剣士が互角に渡り合った一番として語り継ぐだろう。
しかし、その立ち合いの本当の意味を知ったのは――
足利義輝ただ一人であった。




