正月の京、雑踏の中の密書
永禄六年(一五六三)正月。
京は一年で最も賑わう日を迎えていた。
社寺へ続く参道は人で埋め尽くされ、公家も武士も町人も、皆が新年の平穏を願って歩いている。
露店には甘酒や団子が並び、子どもたちの笑い声が絶えない。
氏治から「正月は休まれよ」と命じられた佐野昌綱も、信濃屋の女将に勧められ、初詣へ出ていた。
「これほどの人出は、坂東でもなかなか見ぬな。」
そう呟きながら人波を進んでいると、不意に一人の乞食がよろめいた。
「おっと……。」
肩がぶつかる。
ぼろぼろの蓑をまとい、顔を深く笠で隠した老人だった。
「申し訳ございません。」
老人は何度も頭を下げると、そのまま雑踏へ溶けるように姿を消した。
佐野は振り返らない。
その歩調も変えない。
しばらく歩いてから、人目の少ない石垣の脇へ寄ると、静かに懐へ手を入れた。
紙の感触。
「……。」
佐野は小さく文を広げる。
そこには、癖のない簡潔な文字だけが記されていた。
> 松永に怪しきところなし。
されど三好一派に、西国へ通じる者あり。
──空蝉
わずか三行。
それだけだった。
佐野は思わず口元を緩める。
「空蝉殿らしい。」
余計な言葉は一つもない。
見たこと、確かめたことだけを書く。
推測も、感情も交えない。
それが空蝉の流儀だった。
松永久秀には不審な動きはない。
一方で、三好家中には西国勢力と密かに往来する者がいる。
それだけ分かれば十分だった。
佐野は文を細かく裂き、袖の内へ収める。
後で火にくべれば跡形もなく消える。
「相変わらず、見事な潜りようだ。」
あの乞食が空蝉だったのだ。
人混みの中で肩をぶつけ、誰にも気付かれず文だけを残して去る。
まるでその名のとおり、空ろな蝉の抜け殻だけを残して姿を消すような技であった。
佐野は再び参道へ戻る。
境内には新年を祝う鐘の音が響き渡る。
人々の笑顔の向こうで、見えぬ者たちは見えぬまま動き続ける。
佐野は静かに空を見上げ、小さく呟いた。
「ご苦労、空蝉殿。」
その言葉は雑踏に紛れ、誰の耳にも届くことはなかった。




