信貴山城への来訪 ― 老乞食の正体
秋の空は高く澄み、信貴山城の石垣が陽光を受けて白く輝いていた。
今井宗及に案内された佐野昌綱は、山道を登り、大手門の前へとたどり着く。
門前では甲冑姿の城兵が槍を立て、厳重な警備を敷いていた。
宗及が静かに一歩進み出る。
「堺の今井宗及にございます。本日は三好長慶様のお招きにより、小田家臣・佐野昌綱殿をお連れいたしました。」
城兵は宗及を見るなり深く頭を下げた。
「宗及様、お待ちしておりました。」
続いて佐野へ視線を移す。
「佐野殿。ようこそ信貴山城へ。」
佐野も一礼する。
「小田家臣、佐野昌綱にございます。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます。」
城兵が門を開けようとした、その時だった。
「……旦那様。」
掠れた老人の声が背後から響いた。
振り返ると、一人の老人が杖を突きながら、覚束ない足取りでこちらへ近づいてくる。
衣は幾重にも継ぎ当てがされ、草鞋は擦り切れ、白髪は乱れていた。
何より、その目は焦点が合わず、どこを見ているのか分からない。
城兵が顔をしかめる。
「こら、爺! ここは城門だ。下がれ。」
老人はなおも歩みを止めない。
「旦那様……どうか……。」
城兵が槍の柄で押し返そうとしたその瞬間、佐野が静かに手を上げた。
「待たれよ。」
城兵は動きを止める。
佐野は老人の前まで歩み寄った。
「何用だ。」
老人は深く頭を下げ、震える声で言う。
「三日ほど何も口にしておりませぬ……。どうか、昼の粥代だけでも……。」
宗及は黙ってその様子を眺めている。
佐野は何も言わず懐へ手を入れ、小銭を取り出した。
老人の手を取り、静かに握らせる。
「これで温かいものでも食べられよ。」
老人は何度も頭を下げた。
「ありがたや……ありがたや……。」
その時だった。
銭を受け取る老人の指が、佐野の掌をほんの一瞬、二度だけ軽く叩いた。
一拍。
また一拍。
ほんの一瞬の接触。
だが佐野には十分だった。
(……空蝉。)
その癖を知る者は、この世に一人しかいない。
老人は礼を述べながらゆっくりと身を引く。
「旦那様のご武運を……。」
その言葉だけを残し、人混みへと消えていった。
城兵は苦笑する。
「佐野殿はお優しいお方ですな。」
宗及も微笑んだ。
「困った者を見過ごせぬご気性と伺っております。」
佐野はわずかに笑みを返すだけだった。
しかし胸中では、別の思いが巡っていた。
空蝉がここにいる。
空蝉は意味もなく姿を見せる男ではない。
わざわざ乞食に化けて城門まで現れたということは、この城内に佐野へ知らせるべき人物がいるということだ。
そして、その人物は——。
(……松永久秀殿か。)
佐野は確信した。
長慶が自ら会うだけなら、このような合図は不要である。
空蝉は「予想外の同席者」を知らせに来たのだ。
宗及が静かに声を掛ける。
「参りましょう、佐野殿。長慶様がお待ちです。」
佐野は一つうなずいた。
「承知いたしました。」
巨大な城門がゆっくりと開く。
佐野は信貴山城へ一歩を踏み入れた。
その先の茶室で、三好長慶、そして松永久秀との会談が待ち受けていることを胸に秘めながら。




