夕闇の急襲
九月も終わりを告げた。
一か月に及んだ興福寺秋季大祭は、ついに最終日を迎える。
龍涎香、沈香、鼈甲細工。
南海の珍品は人々を魅了し、冷茶は祭りの名物となった。
田楽や猿楽は連日喝采を浴び、奈良の町は朝から晩まで笑顔に包まれる。
人々は口々に言った。
「平城京以来の賑わいだ。」
いや、それ以上であった。
大和、堺、雑賀、坂東。
四者が力を合わせて開いた祭りは、大成功を収めたのである。
そして――。
敵は現れなかった。
近衛前久を餌として待ち構えた一か月。
佐野率いる儀仗抜刀隊は近衛を守り続け、新田政景の見廻衆は氏治を警護しながら奈良を巡察した。
興福寺僧兵も、筒井勢も、一度たりとも気を緩めなかった。
それでも何事も起こらぬまま、祭りは終わろうとしていた。
興福寺。
片付けが始まり、順慶は集まった者たちへ頭を下げた。
「皆のおかげで、大祭は無事終わりました。」
「心より感謝申し上げます。」
僧兵たちも肩の力を抜き、商人たちも安堵の表情を浮かべる。
氏治も穏やかに微笑んだ。
「これで一安心――」
その時だった。
山門の外から馬の蹄が鳴り響く。
「急報!」
伝令が転げるように駆け込んだ。
「郡山に敵襲!」
「直ちに援軍を願います!」
境内がざわつく。
順慶は顔色を変えた。
「郡山が!」
新田政景は即座に立ち上がる。
「見廻衆、出陣用意!」
だが――。
指笛が境内へ響いた。
ピーッ――。
標。
北斗。
いつもなら一瞬で舞い降りる二羽が、今日は動かない。
いや。
興福寺の空を旋回したまま、寺を離れようとしない。
新田はもう一度、鋭く指笛を鳴らした。
しかし二羽は応えない。
むしろ翼をすぼめ、一点を見据えた。
「……?」
次の瞬間だった。
北斗が急降下した。
続いて標も一直線に地面へ突っ込む。
その先にいたのは――
祭りを終え、奈良を去ろうとしていた旅の田楽一座。
「ギャッ!」
北斗の爪が一人の男の肩を裂く。
標は別の男の顔へ襲いかかった。
笛が落ちる。
太鼓が転がる。
そして袖口から短刀が覗いた。
「敵だ!」
男たちは一斉に刀を抜き、興福寺へ駆け出した。
「近衛を討て!」
「急げ!」
山門前。
そこには、一人の老人が寝転ぶように道を塞いでいた。
旅の老人。
誰も気にも留めていなかった。
男たちは怒鳴る。
「どけ、老いぼれ!」
老人はゆっくり起き上がった。
「……ほう。」
夕闇の中。
その姿は影のように揺らぐ。
次の瞬間――
消えた。
「なっ!」
一歩。
いや、一瞬。
人間とは思えぬ脚力で男たちの懐へ飛び込む。
肘。
膝。
掌底。
投げ。
敵が宙を舞う。
「ば、化け物!」
老人――空蝉は、五十人もの暗殺者を相手に一人で乱戦を始めていた。
盲いた瞳は何も映していない。
それでも敵の呼吸、足音、殺気だけで次々と打ち倒していく。
「ここは……通さぬ。」
標と北斗も再び急降下し、暗殺者の顔や腕を鋭い爪で襲う。
その隙を突き、馬を飛ばした新田が駆け込んだ。
「見廻衆!」
「俺に続け!」
従うのは、わずか十人。
それでも迷わず敵中へ飛び込む。
さらに山門の奥から、
「抜刀!」
佐野昌綱の声が響く。
儀仗抜刀隊が近衛前久を背に陣形を組み、一気に前へ出た。
居合が閃く。
敵が倒れる。
しかし暗殺者は退かない。
逃げもしない。
「討て!」
「近衛だけは!」
さらに旅人の群れから、新たな暗殺者が次々と現れた。
「まだいるのか!」
数は百を超えていた。
新田は歯を食いしばる。
「真田は!」
その時だった。
遠くから地鳴りが聞こえる。
ドドドドドッ――!
馬蹄。
百四十騎。
先頭には真田昌幸。
その隣には馬場信春。
「新田殿!」
「お待たせしました!」
騎馬隊が槍を揃え、一斉に突撃する。
暗殺者の隊列はたちまち崩壊した。
なおも抵抗する者は、抜刀隊と見廻衆が討ち取り、僧兵が長槍で包囲する。
やがて戦いは終わった。
空蝉は最後の一人を柔法で地へ押さえつける。
腕を極め、首を押さえ、逃げ場はない。
「……終わりだ。」
男は苦しげに笑った。
「くく……。」
その口元が歪む。
空蝉は異変を感じた。
「待て!」
しかし遅い。
男は奥歯に隠していた毒を噛み砕いた。
「次は……必ず……。」
不気味な笑みを残し、そのまま息絶えた。
空蝉は静かに男を離す。
「……誰一人、生きて捕らえられぬか。」
夕闇の興福寺。
静寂が戻る中、標と北斗だけがなおも空を旋回し、奈良の夜を見張り続けていた。




