秋空に舞う標と北斗
九月――。
興福寺の秋の一か月祭りは、奈良の歴史に残るほどの盛況を迎えていた。
朝、南円堂の鐘が鳴れば、人の波が山門を埋める。
大和の民はもちろん、堺、紀伊、伊勢、近江、河内、播磨、坂東からも旅人や商人が集まり、境内は色鮮やかな幟で埋め尽くされた。
南海から運ばれた龍涎香や沈香は甘く奥深い香りを漂わせ、鼈甲細工の香箱や異国の品々には人だかりが絶えない。
舞台では田楽や猿楽が披露され、笛と太鼓の音が境内いっぱいに響く。
暑さの残る秋空の下では、佐野昌綱が七月に考案した冷茶が祭りの名物となり、竹筒に入れられた冷たい茶は飛ぶように売れた。
「冷茶はこちら!」
「よく冷えております!」
笑い声と呼び込みの声が交じり合い、奈良はまるで平城京が甦ったかのような賑わいを見せる。
その様子を眺めた筒井順慶は静かに呟いた。
「これほどの祭りは見たことがない……。」
その隣で近衛前久も目を細める。
「人が笑い、商いが栄え、寺が賑わう。」
「これぞ本来の祭りよ。」
しかし、その華やかさの裏には誰も知らぬ思惑があった。
近衛前久が奈良に留まること。
それ自体が、敵を誘い出すための餌だった。
近衛を狙う者がいれば、この大祭ほど好機はない。
佐野率いる儀仗抜刀隊は近衛の周囲を固め、
新田政景の見廻衆は氏治を警護しながら周辺を巡察する。
興福寺僧兵は長槍を携えて境内を巡り、
筒井勢は奈良町を警備し、
宍戸政繁は紀伊方面を押さえ、
雑賀衆は南海交易の品々を守る。
誰もが戦支度を整えながら、平穏を装っていた。
だが――。
一日目。
敵は現れない。
二日目。
何事も起こらない。
三日目。
なおも祭りは笑顔に包まれた。
「空振りか。」
誰かがそう呟いた。
しかし佐野も新田も気を緩めることはない。
「敵が来ないなら、それに越したことはない。」
佐野はそう言いながらも、人混みの奥へ鋭い視線を向けていた。
そして空では、二つの影が悠然と舞っていた。
標。
北斗。
二羽は祭りが始まって以来、一度も奈良の空を離れない。
とりわけ警戒していたのは、各地からやって来る旅の一座だった。
田楽。
猿楽。
旅芸人。
門付け。
笛吹き。
太鼓持ち。
一座が奈良へ入るたび、標と北斗は高く舞い上がり、その頭上を幾度も旋回する。
まるで一人ひとりの顔を確かめるように。
怪しい動きがあれば低く降り、人の流れを見渡す。
芸人たちは「今日はずいぶん鷹が寄るものだ」と笑っていたが、新田はその様子を黙って見つめていた。
「……頼むぞ。」
標と北斗は答えるように一声鳴く。
秋の澄んだ青空を大きく旋回し、再び旅の一座の上空へ舞い戻った。
人々は祭りを楽しみ、誰もが平和な一日だと思っていた。
しかし空から奈良を見下ろす二羽だけは、まだ訪れていない嵐の気配を探し続けていた。




