勝つ戦、負けぬ戦
宇都宮滞在も数日が過ぎた頃。
尚綱は四人の子どもたちを奥の書院へ呼び集めた。
畳の上には一枚の大きな地図。
山々と街道、川筋だけが丁寧に描かれている。
尚綱は地図を指しながら言った。
「今日は兵法の話だ。」
「ある国の大名が、隣国へ攻め込んだ。」
「兵力は攻める側が優勢。」
「しかし敵は山野を知り尽くしている。」
「さて、お前たちならどう戦う。」
氏治、小山義広、結城朝綱、結城朝基は地図を囲んだ。
義広が真っ先に答える。
「兵が多いなら、一気に押し切ります。」
尚綱は笑う。
「若武者らしい答えだ。」
続いて朝綱。
「私は急ぎません。」
「山の道を調べ、敵を城へ閉じ込めます。」
「兵糧が尽きれば戦わずとも済みます。」
「うむ。」
尚綱は満足そうに頷いた。
朝基もおずおずと手を挙げる。
「馬も疲れるから……休ませます。」
家臣たちが思わず笑う。
しかし尚綱は真顔だった。
「その通りだ。」
「馬も兵も腹が減れば戦えぬ。」
「よい着眼だ。」
そして最後に氏治を見る。
「氏治。」
「お前ならどうする。」
氏治は地図を見つめた。
亡霊として生きた四百年。
歴史はもう知っている。
(これは……。)
(武田信玄公と村上義清公の戦だ。)
思わず口をついて出た。
「武田なら――」
部屋が静まる。
尚綱の眉がわずかに動いた。
氏治はしまったと思った。
本来、尚綱はどちらの陣営とも明かしていなかった。
治彦も内心で冷や汗を流す。
(しまった……。)
(若君、知っていることを前提に話してしまった。)
だが尚綱は何も指摘せず、静かに続きを促した。
「続けよ。」
氏治は一礼した。
「……武田方なら、私は決戦を急ぎません。」
「敵地へ入るたび、小さな砦を築きます。」
「兵糧を置き、傷兵を休ませ、退路を守るためです。」
真壁幹久が感心する。
「攻めながら守る、か。」
氏治は頷く。
「さらに山道は猟師や木こりに調べてもらいます。」
「敵は地の利があります。」
「ならば、その利を減らします。」
朝綱も地図を見つめながら口を開く。
「決戦は……。」
「しないのですか。」
「はい。」
氏治は静かに答えた。
「戦は勝つためではなく、国を取るためのものです。」
「敵が出てこないなら、田畑や道を押さえます。」
「兵糧を断ちます。」
「半年でも一年でも待ちます。」
尚綱は腕を組み、興味深そうに頷いた。
「なるほど。」
「では、守る側ならどうだ。」
氏治は今度は迷わなかった。
「村上方なら。」
また自然と名を口にしてしまう。
治彦は思わず額へ手を当てた。
(また言ってしまわれた……。)
氏治本人だけは気付いていない。
「村上方なら、勝っても追い過ぎません。」
「退路を一つだけ残します。」
義広が首をかしげる。
「逃がすのですか。」
「はい。」
「逃げ道がない敵は必死になります。」
「逃げ道があれば、人は逃げます。」
「退く敵は、戦う敵より扱いやすいです。」
朝綱が目を輝かせた。
「追撃は?」
「狭い道だけ押さえます。」
「隊列が乱れたところで降伏を促します。」
「できるだけ討たずに済ませます。」
書院は静まり返った。
尚綱はゆっくりと立ち上がる。
「面白い。」
「勝つ方法だけではない。」
「負けぬ方法。」
「終わらせる方法。」
「そこまで考えるか。」
氏治は照れくさそうに笑った。
「戦は、誰かが死ぬものです。」
「だから……。」
「勝っても、死ぬ人は少ないほうがいいと思います。」
尚綱はしばらく氏治を見つめていた。
やがて、豪快に笑う。
「ははは!」
「氏治、お前は不思議な童だ!」
「名を伏せたはずの戦を知っておる。」
「しかも勝敗より先に、その後を語る。」
氏治はその言葉でようやく気付いた。
「あ……。」
思わず口を押さえる。
部屋中が一瞬静まり、次の瞬間、尚綱をはじめ家臣たちはどっと笑い出した。
「はははは!」
「若君、考え事をすると口まで先に動くらしい!」
治彦だけは苦笑しながら胸をなで下ろいた。
(危ない……。)
(だが、誰も未来を知っているとは思うまい。)
尚綱は笑い終えると、氏治の肩へ優しく手を置いた。
「氏治。」
「お前は戦そのものより、その先を見ている。」
「それが将に最も大切な目なのかもしれぬ。」
春の日差しが書院へ差し込み、四人の幼子は静かに地図を見つめ続けていた。
この日の兵法談義は、彼らが後に坂東を支える礎となっていくのである。




