夏の知恵
奈良大祭を目前に控えた八月。
大和の町は、祭りの支度に沸き返っていた。
興福寺では法会や歌会の準備が進み、東大寺では奉納の段取りが整えられる。春日大社では神事の稽古が続き、町では田楽や猿楽の一座が舞台の確認を行っていた。
堺や伊勢、河内、摂津から商人が集まり、市場には見たこともない品々が並び始める。
一方で、祭りの裏では政治もまた動いていた。
近衛前久は京へ戻り、朝廷との約定を詰めていた。
大和を戦火から遠ざける中立の取り決め。
奈良大祭への勅許。
さらに、祭りが無事に終わった後を見据えた任官についても、朝廷との折衝が続けられていた。
その近衛には、水戸頼治、北畠家の一行、そして儀仗抜刀隊が付き従う。
公家を狙う者が現れても不思議ではない。
抜刀隊は昼夜を問わず警護を固め、京と奈良を往復していた。
そのため、興福寺には久しぶりに静かな時間が訪れていた。
佐野昌綱。
そして空蝉。
二人だけで境内を見回り、祭礼の警備や舞台の配置を確かめて歩く。
「これほど静かなのも久しぶりだな。」
空蝉が笑う。
「皆、それぞれの役目がありますから。」
佐野も穏やかに頷いた。
その時だった。
「ようやく、お二人だけになられましたな。」
柔らかな声が背後から聞こえる。
振り返ると、一人の商人が深々と頭を下げていた。
「堺の今井宗及にございます。」
空蝉はすぐに相手を見定める。
「茶人でもある、あの宗及殿か。」
「お耳に入れていただき光栄にございます。」
宗及はにこやかに笑った。
「実は、お二人にぜひご相談したいことがございまして。」
佐野が促す。
「申してみられよ。」
宗及は境内を埋め尽くす人々を見回した。
「これほどの祭りは必ず成功いたしましょう。しかし、一つだけ商人として心配しております。」
「何でしょう。」
「八月から九月。祭りの頃は、まだ残暑が厳しい。」
宗及は空を見上げた。
「大和は盆地。昼はことのほか暑うございます。」
そして苦笑する。
「私は庶民にも茶を楽しんでいただきたく、茶屋を多く出すつもりです。しかし、この暑さでは熱い茶を求める者は少ないでしょう。」
空蝉も腕を組む。
「なるほど。もっともな悩みだ。」
佐野だけは静かに考え込んでいた。
やがて口を開く。
「宗及殿。」
「はい。」
「興福寺の台所を少し借りてもよろしいか。」
宗及は首を傾げながらも案内した。
やがて佐野は、寺に残されていた氷を細かく砕かせる。
さらに、小田から試験用として運び込まれていた氷も少量加えた。
その氷で茶碗を冷やし、別に淹れたほうじ茶をゆっくりと冷ます。
茶碗が十分に冷えたところで、その茶を注いだ。
さらに別の茶碗では抹茶を点て、器ごと氷で冷やして仕上げる。
佐野は二つの茶碗を宗及の前へ置いた。
「どうぞ。」
宗及は恐る恐る、ほうじ茶へ口を付ける。
次の瞬間、その目が大きく見開かれた。
「……これは。」
冷たい。
だが茶の香ばしさは失われていない。
歩き疲れた身体へ、すっと染み渡る。
続いて抹茶を口にする。
こちらも冷えた器のおかげで涼やかさが際立ち、苦味が心地よく残った。
宗及はしばらく言葉を失っていた。
やがて深く息を吐く。
「茶を……冷やす。」
「そんなこと、一度も考えたことがございませんでした。」
佐野は静かに微笑む。
「暑い日に、暑いものだけを出す必要はありません。」
「人に合わせて楽しみ方を変える。それもまた商いではありませんか。」
宗及は何度も頷いた。
「さすがは佐野殿。」
「これは奈良大祭の名物になります。」
空蝉も冷えた茶を一口飲み、思わず笑みを浮かべる。
「戦だけではない。知恵もまた、人を救うものだな。」
夏の興福寺に、新たな名物が静かに生まれようとしていた。




