表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
326/1023

夏の知恵

奈良大祭を目前に控えた八月。


大和の町は、祭りの支度に沸き返っていた。


興福寺では法会や歌会の準備が進み、東大寺では奉納の段取りが整えられる。春日大社では神事の稽古が続き、町では田楽や猿楽の一座が舞台の確認を行っていた。


堺や伊勢、河内、摂津から商人が集まり、市場には見たこともない品々が並び始める。


一方で、祭りの裏では政治もまた動いていた。


近衛前久は京へ戻り、朝廷との約定を詰めていた。


大和を戦火から遠ざける中立の取り決め。


奈良大祭への勅許。


さらに、祭りが無事に終わった後を見据えた任官についても、朝廷との折衝が続けられていた。


その近衛には、水戸頼治、北畠家の一行、そして儀仗抜刀隊が付き従う。


公家を狙う者が現れても不思議ではない。


抜刀隊は昼夜を問わず警護を固め、京と奈良を往復していた。


そのため、興福寺には久しぶりに静かな時間が訪れていた。


佐野昌綱。


そして空蝉。


二人だけで境内を見回り、祭礼の警備や舞台の配置を確かめて歩く。


「これほど静かなのも久しぶりだな。」


空蝉が笑う。


「皆、それぞれの役目がありますから。」


佐野も穏やかに頷いた。


その時だった。


「ようやく、お二人だけになられましたな。」


柔らかな声が背後から聞こえる。


振り返ると、一人の商人が深々と頭を下げていた。


「堺の今井宗及にございます。」


空蝉はすぐに相手を見定める。


「茶人でもある、あの宗及殿か。」


「お耳に入れていただき光栄にございます。」


宗及はにこやかに笑った。


「実は、お二人にぜひご相談したいことがございまして。」


佐野が促す。


「申してみられよ。」


宗及は境内を埋め尽くす人々を見回した。


「これほどの祭りは必ず成功いたしましょう。しかし、一つだけ商人として心配しております。」


「何でしょう。」


「八月から九月。祭りの頃は、まだ残暑が厳しい。」


宗及は空を見上げた。


「大和は盆地。昼はことのほか暑うございます。」


そして苦笑する。


「私は庶民にも茶を楽しんでいただきたく、茶屋を多く出すつもりです。しかし、この暑さでは熱い茶を求める者は少ないでしょう。」


空蝉も腕を組む。


「なるほど。もっともな悩みだ。」


佐野だけは静かに考え込んでいた。


やがて口を開く。


「宗及殿。」


「はい。」


「興福寺の台所を少し借りてもよろしいか。」


宗及は首を傾げながらも案内した。


やがて佐野は、寺に残されていた氷を細かく砕かせる。


さらに、小田から試験用として運び込まれていた氷も少量加えた。


その氷で茶碗を冷やし、別に淹れたほうじ茶をゆっくりと冷ます。


茶碗が十分に冷えたところで、その茶を注いだ。


さらに別の茶碗では抹茶を点て、器ごと氷で冷やして仕上げる。


佐野は二つの茶碗を宗及の前へ置いた。


「どうぞ。」


宗及は恐る恐る、ほうじ茶へ口を付ける。


次の瞬間、その目が大きく見開かれた。


「……これは。」


冷たい。


だが茶の香ばしさは失われていない。


歩き疲れた身体へ、すっと染み渡る。


続いて抹茶を口にする。


こちらも冷えた器のおかげで涼やかさが際立ち、苦味が心地よく残った。


宗及はしばらく言葉を失っていた。


やがて深く息を吐く。


「茶を……冷やす。」


「そんなこと、一度も考えたことがございませんでした。」


佐野は静かに微笑む。


「暑い日に、暑いものだけを出す必要はありません。」


「人に合わせて楽しみ方を変える。それもまた商いではありませんか。」


宗及は何度も頷いた。


「さすがは佐野殿。」


「これは奈良大祭の名物になります。」


空蝉も冷えた茶を一口飲み、思わず笑みを浮かべる。


「戦だけではない。知恵もまた、人を救うものだな。」


夏の興福寺に、新たな名物が静かに生まれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ