伊勢路護衛の任
小田氏治より京へ赴き、人脈を築くよう命じられてから数日が過ぎた。
佐野昌綱は、今日も信濃屋の一室で静かに茶をすすっていた。
信濃屋は、もはや宿ではない。
京での拠点であり、帰る場所であり、出浦と連絡を取るための場所でもあった。
滞在にかかる費用はすべて氏治が負担している。
女将も奉公人たちも、佐野を長逗留の客ではなく、家族のように迎えてくれる。
「佐野様、お茶のおかわりはいかがですか。」
「いただこう。」
女将は柔らかく微笑み、湯呑へ静かに湯を注いだ。
商家の女将として、いつもと変わらぬ振る舞いである。
京の噂話を交えながら世間話をし、旅人の世話を焼き、帳場へ戻っていく。
それ以上でも、それ以下でもない。
そんな穏やかな昼下がりであった。
店先が少し騒がしくなり、奉公人が奥へ駆け込んできた。
「女将さん、宮中からお使いの方がお見えです。」
「こちらへお通しして。」
間もなく、装束を正した使者が座敷へ通された。
佐野は姿勢を正し、一礼する。
使者は懐から書状を取り出した。
「朝廷よりの仰せにございます。」
「ある公家様が伊勢神宮へ御参詣なされます。その折、朝廷からの進物を奉納いたしますゆえ、護衛を佐野昌綱殿へお願いしたいとのこと。」
佐野は書状を受け取り、静かに目を通した。
ようやく来た。
氏治が自分を京へ送り出した理由となる役目である。
しばらく考えたのち、佐野は頭を下げた。
「謹んでお受けいたします。ただ、道中の備えと各所へのご挨拶がございます。恐れながら二、三日のお時間を頂戴できますでしょうか。」
「承知いたしました。そのように奏上いたします。」
使者は一礼し、信濃屋を後にした。
座敷に静けさが戻る。
女将がお盆を手に近づき、湯呑を新しいものへ替えた。
「お忙しくなりますね。」
「ええ。」
「お帰りは夕刻でしょうか。」
佐野は少し笑う。
「どうだろう。先生方と話し込めば、夜になるやもしれません。」
「でしたら、お夕飯は温め直せるよう用意しておきます。」
「ああ、頼みます。」
まるで家を出る夫を見送るような、いつものやり取りだった。
佐野は刀を差し直し、立ち上がる。
まず向かうべき場所は決まっている。
上泉伊勢守が開く剣友会。
旅の前に、剣友たちの知恵を借りねばならない。
初夏の京の町を、佐野はゆっくりと歩き始めた。




