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空蝉の名

天覧試合から三日。

京・信濃屋。

済済道人はあれほどの激戦の末に倒れ、医師からもしばらくは目を覚まさぬであろうと言われていた。

しかし、その朝。

佐野昌綱が部屋へ入ると、そこには胡座をかいて湯呑を傾ける済済道人の姿があった。

「……起きておられたのですか。」

済済道人は湯気の向こうから笑う。

「腹が減っての。」

あまりにも普段どおりの様子に、佐野は思わず苦笑した。

「全く……。」

「ご無事で何よりです。」

佐野は腰を下ろし、この三日間の出来事を語った。

天覧試合の優勝。

帝への拝謁。

そして、自らの褒美として願ったこと。

「陛下は、小田氏治様へ官位を賜り、上洛して拝謁することをお許しくださいました。」

済済道人は静かに頷く。

「ほう。」

「その報は直ちに坂東へ届けられました。」

「今頃、氏治様は真壁殿、笠間殿を伴い、上洛の支度を進めておられることでしょう。」

済済道人は嬉しそうに笑った。

「よい主君に巡り会えたようじゃな。」

「はい。」

「私には過ぎたる御方です。」

しばらく沈黙が流れる。

やがて佐野はふと思い出したように尋ねた。

「そういえば。」

「済済道人というのは、少し変わったお名前です。」

「本当のお名前は何と申されるのですか。」

済済道人は湯呑を止め、遠くを見るような顔をした。

「……忘れた。」

佐野は思わず聞き返す。

「忘れた、のですか。」

「ああ。」

「長いこと呼ばれておらんうちにな。」

済済道人は静かに語り始めた。

「貧しい農家の生まれじゃ。」

「昼は畑で働き、夜になると明かりを頼りに学んだ。」

「学ぶことだけは好きでな。」

「ようやく戦に出られるようになって武功を挙げても、その功は偉い者に取られる。」

「苦労して手に入れた刀も、戦場で奪われる。」

「そんな人生じゃった。」

それでも男は笑っていた。

恨みも、怒りもない。

ただ懐かしむように。

「それでも学んだ。」

「刀が折れたら拳で戦う。」

「矢が尽きたら蹴りで戦う。」

「石でも棒でも、使えるものは何でも使った。」

「勝ちたかったのではない。」

「昨日の自分より強くなりたかっただけじゃ。」

佐野は黙って耳を傾ける。

「そんなこんなしておるうちに、故郷は焼けてなくなった。」

済済道人は肩をすくめた。

「もっとも、帰る場所でもなかった。」

「貧しくて、友もおらん。」

「家族も散り散り。」

「ならば好機じゃと思った。」

「どこへでも行ける。」

「それからは、戦があると聞けば赴いた。」

「勝っても負けても構わぬ。」

「強い者と戦い、学ぶ。」

「それだけを繰り返した。」

男は自らの額に触れる。

「そして、石じゃったか、肘打ちじゃったか……。」

「もう忘れたが、この辺りを強く打たれてな。」

「それから物がぶれて見えるようになった。」

「やがて視力そのものも失われ、今ではほとんど見えておらん。」

佐野は静かに目を伏せた。

しかし済済道人は嬉しそうに笑う。

「じゃが、不思議なことがあった。」

「おぬしと戦っておる最中じゃ。」

「ほんのわずかじゃが、見えた。」

「ぼやけてはおったが、おぬしの姿が見えた。」

「嬉しかった。」

「本当に嬉しかった。」

「もう二度と見えることはないと思っておったからの。」

その笑顔は、まるで少年のようであった。

佐野はしばらく黙っていた。

やがて静かに口を開く。

「あなたには、お名前が必要です。」

済済道人は笑う。

「今さら名など。」

「いいえ。」

佐野は首を横に振った。

「あなたの剣を見て、私は一つの名を思い浮かべました。」

「あなたの剣は、美しく、そして儚い。」

「姿を捉えたと思えば、すでにそこにはいない。」

「風のように現れ、風のように消えていく。」

「その姿は、この世にありながら、この世ならざるものを見るようでした。」

済済道人は静かに耳を傾ける。

「過去の名は忘れられました。」

「故郷も失われました。」

「ならば、これからを生きる名を持つべきです。」

佐野は深く一礼した。

「どうか、これからは──空蝉とお名乗りください。」

部屋は静まり返った。

男はしばらくその名を噛み締めるように呟く。

「空蝉……。」

「空蝉か。」

やがて満面の笑みを浮かべた。

「良い名じゃ。」

「過去は忘れた。」

「ならば、これからは空蝉として生きよう。」

佐野もまた微笑み、深く頭を下げる。

「よろしくお願いいたします、空蝉殿。」

「こちらこそじゃ、佐野昌綱。」

名を失った一人の武人は、その日、新たな名を得た。

そしてその名は、やがて坂東において、剣豪空蝉として語り継がれることになるのであった。

この章はそのまま次の「氏治の上洛・帝との初対面」へ自然につながる構成になっています。

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