静寂の剣、その4
佐野は木剣を静かに構えたまま、一歩も退かなかった。
済済道人の舞はなおも続く。
拳が走る。
肘が閃く。
膝が跳ねる。
回転しながら放たれる蹴りが風を裂き、砂を巻き上げる。
まるで舞楽を見るような、美しく、それでいて命を奪う舞であった。
しかし。
その激しい攻防の中で、佐野は一つの事実を見抜いていた。
(……届かない。)
済済道人の拳は鋭い。
蹴りは疾い。
だが、あと半歩。
佐野の間合いへ届く直前で、わずかに勢いが失われる。
刀を捨てたことで、その半歩を補っていた得物の長さも失われたのだ。
(やはり。)
(この御仁の弱点は、目ではない。)
(軽さだ。)
済済道人は軽い。
常人なら羨むほど身軽である。
その軽さゆえ、誰にも真似のできぬ跳躍ができる。
その軽さゆえ、舞うような身のこなしができる。
だが同時に、その軽さゆえに間合いが足りない。
刀とは、その半歩を埋めるための武器だった。
佐野は確信した。
済済道人は、生まれ持った体格の不利を補うために、剣を磨き、拳を極めた武人なのだと。
だが――。
済済道人は、その弱点を知り尽くしていた。
「ならば!」
地を蹴る。
いや。
跳んだ。
一歩ではない。
二間近い距離を、一息に飛び越える。
人が跳ぶ高さではない。
低く。
速く。
影だけが地を滑る。
佐野は咄嗟に木剣を振るう。
済済道人は空中で身体をひねり、その刃を紙一重でかわす。
着地したと思えば、すでに次の踏み込み。
重力など存在しないかのような連続跳躍。
砂煙の中を影が駆ける。
観衆の誰もが息を呑んだ。
「あれは……。」
「人か……?」
「いや……。」
誰ともなく、震える声が漏れる。
「夜道であれに出会えば……。」
「人は鬼と見間違える。」
別の者が首を振る。
「違う。」
「鬼ではない。」
「……幽鬼だ。」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
音もなく迫り。
闇の中を舞い。
人知を超えた跳躍で間合いを消す。
その姿は、生者というより、この世ならぬもの。
まさしく幽鬼であった。
しかし、その幽鬼の前に立つ佐野昌綱だけは、微動だにしない。
静かに木剣を構え、次に訪れる一瞬を待ち続けていた。
ふたりはしばし打ち合うもなかなか決着はつかなかった。
佐野は木剣を振るい、済済道人は拳と足で応じる。
互いに一歩も退かず、一歩も奪えない。
打てばかわされ、踏み込めば迎え撃たれる。
静と動。
二つの武は、いつしか勝敗を超えた場所でぶつかり合っていた。
やがて済済道人は大きく後ろへ跳び、初めて間合いを切った。
肩で息をしながらも、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「はは……。」
「ははははっ!」
声を上げて笑った。
「佐野昌綱。」
木剣を下げたまま問いかける。
「そなたの得意とするものは、何だ?」
佐野は静かに構えを崩さない。
済済道人は空を見上げた。
「わしは……。」
「生きてきて、今が一番楽しい。」
場内が静まり返る。
済済道人は笑みを浮かべたまま続けた。
「今まで斬ってきた者は、皆わしを見下した。」
「乞食と笑い、老人と侮り、勝てると思って近寄ってきた。」
「わしは、それを斬り伏せるだけじゃった。」
「勝っても、生きている心地はせなんだ。」
一歩、佐野へ近づく。
「できることなら……。」
「真剣で、おぬしと立ち合いたかった。」
その言葉に嘘はない。
武人として、心からそう願っていた。
「頼む。」
済済道人は深く頭を下げる。
「そなたの得意な技を、わしに見せてくれ。」
しばらく沈黙が流れた。
佐野は静かに息を吐く。
「……承知いたしました。」
深く一礼。
そして木剣をゆっくりと身体の左へ寄せる。
まるで鞘がそこにあるかのように。
左手を静かに腰へ添え、右手を柄へ置く。
木剣を――
鞘へ納めるがごとく。
庭の空気が変わった。
誰も見たことのない構え。
正眼ではない。
上段でもない。
八相でも脇構えでもない。
ただ静かに、刀を収めた武人の姿。
済済道人の目が大きく見開かれた。
そして。
「ははっ!」
「はははははっ!」
狂喜した。
心の底から嬉しそうに笑う。
「そうか!」
「そう来たか!」
両手を大きく広げる。
「投げでもない!」
「打突でもない!」
「正眼でも上段でもない!」
「刀を……しまう!」
済済道人は満面の笑みで佐野を見つめた。
「ある意味、おぬしもわしと同じか。」
「わしは剣を捨て、拳に生きた。」
「おぬしは剣を収め、その中に剣を残した。」
「気が合うな。」
にかっと歯を見せて笑う。
その笑顔は、これまでの飄々とした老人のものではなかった。
一人の武人が、ようやく巡り会えた好敵手を前に見せる、少年のような笑顔だった。
佐野もまた、小さく微笑み、一礼する。
「参ります。」
静寂が、再び天覧の庭を包んだ。




