静寂の剣、続き
済済道人は深々と頭を下げた。
「……礼を申す。」
場内は水を打ったように静まり返っている。
「おぬしは、わしを見世物ではなく、一人の武人として扱ってくれた。」
「昔、戦場で同じように接してくれた男がおった。」
済済道人の視線は上座へ向く。
上泉信綱は静かに頷いた。
「勝負こそつかなかったが、あの御方だけは、わしを人として見てくれた。」
「おぬしの中に、その姿を見た。」
佐野は静かに一礼を返す。
「身に余るお言葉です。」
済済道人は木刀を握り直した。
「されど、礼は礼。」
「もう一度、存分に立ち合ってくれ。」
「参る。」
「お相手いたします。」
二人は改めて礼を交わした。
試合場には再び木剣の音が響き始める。
乾いた打ち合い。
受け、払い、打ち返す。
済済道人は正手で正攻法の剣を振るい、佐野は見切りと受けで応じる。
一太刀ごとに間合いが変わり、一歩踏み込めば一歩退く。
互いに決定打はない。
されど一瞬たりとも気は抜けない。
やがて済済道人は笑った。
「良い!」
踏み込みが鋭くなる。
佐野も受けるだけではない。
木剣を滑らせ、打ち落とし、打ち返す。
攻防はさらに激しさを増した。
砂が舞い、汗が飛ぶ。
観衆は息をすることすら忘れていた。
五分。
されど、誰も長いとは感じない。
帝も、将軍も、公家も、大名も。
ただ二人だけを見つめていた。
済済道人の息が少しずつ荒くなる。
肩が上下し始める。
「……さすがに。」
誰かが小さく呟いた。
「あの老人も疲れたか。」
上泉信綱だけは黙っていた。
その目は、済済道人から離れない。
済済道人は俯き、肩で息をした。
やがて、くつくつと笑い始める。
「はは……。」
「ははは……。」
笑い声は次第に大きくなり、やがて天を仰いだ。
「そうか。」
「そうであったか。」
ゆっくりと顔を上げる。
その双眸には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
「今までの敵は、皆わしを侮った。」
「乞食と笑い。」
「老人と見下し。」
「油断したまま斬られていった。」
両手の木刀を静かに持ち上げる。
くるり。
二振りは逆手へと持ち替えられた。
場内がどよめく。
剣術としては異形。
だが、その構えは拳法の理そのもの。
肩の力は抜け、腰は沈み、全身が獲物へ飛びかかる獣のようにしなる。
済済道人は笑う。
「ありがとう、佐野昌綱。」
「おぬしは初めてじゃ。」
「わしに──」
一歩、前へ出る。
「本気を出させてくれた。」
その瞬間。
済済道人の姿が、ふっと霞んだ。
あまりの速さに、観衆の誰もが息を呑む。
ただ一人。
佐野昌綱だけが、その姿を静かに見据えていた。
――次話へ続く。




