青鬼との酒宴
春の陽光が下野の大地を優しく照らしていた。
冬の名残を残していた野山にも若草が芽吹き、街道には旅人の姿が戻り始めている。
小田城を発った一行は、数日の旅を経て宇都宮城へ到着した。
先頭を行く真壁幹久が馬を止める。
「若君。」
「見えてまいりました。」
氏治は馬上から身を乗り出した。
幾重にも巡る堀。
堂々たる城門。
広々とした馬場。
小田城とはまた違う、武家の風格を備えた城が眼前に広がっていた。
「大きい……。」
義広は誇らしげに笑う。
「ここが宇都宮城です。」
城門ではすでに家臣たちが整列していた。
その中央に立つ一人の武将。
青い直垂をまとい、鋭い眼光を持つ男。
宇都宮尚綱――坂東にその名を轟かせる『青鬼』である。
尚綱は氏治の姿を見るなり、厳しい表情を崩した。
「よく来たな、氏治。」
氏治は馬を降り、深く頭を下げる。
「おじ上様。」
「お招きいただき、ありがとうございます。」
「うむ。」
尚綱は頷くと、義広、真壁、治彦にも声を掛けた。
「遠路、ご苦労であった。」
「今日は堅苦しい話は抜きだ。」
「まずは旅の疲れを癒やそう。」
氏治はにこりと笑った。
「その前に、おじ上様へお土産があります。」
「ほう?」
真壁が荷を運び込み、風呂敷を丁寧に広げていく。
最初に現れたのは、美しい陶器の酒器だった。
尚綱が手に取る。
「……穴が開いておる。」
底には小さな穴が一つ。
「指で塞いで酒を注ぎます。」
「飲み干すまで置けない盃なんです。」
尚綱は豪快に笑った。
「ははは!」
「これは面白い!」
「酒飲みにはたまらぬ遊びだ!」
続いて包みが開かれる。
部屋いっぱいに香ばしい香りが漂った。
「これは……鳥か。」
「はい。」
氏治は嬉しそうに答える。
「鴨です。」
「味噌と醤で下味をつけ、一晩寝かせてから燻しました。」
「宍戸殿が工夫してくださいました。」
尚綱は待ちきれない様子で一切れ口へ運ぶ。
噛むたびに鴨の脂があふれ、濃い味噌と醤の旨味、燻煙の香りが口いっぱいに広がる。
「……旨い。」
思わず目を閉じる。
「これは酒が欲しくなる。」
氏治はさらに一つの瓶を差し出した。
「こちらも宍戸殿のお酒です。」
「少し酸味があって、少しだけ泡があります。」
尚綱は盃へ注ぐ。
細かな泡が立ち、春の香りを思わせる爽やかな酸味が鼻をくすぐる。
一口。
「……。」
二口。
そして鴨を頬張る。
「……ふっ。」
「ははははは!」
尚綱は腹の底から笑い始めた。
「これはたまらん!」
「鳥の旨さを知っておる!」
「濃い味付けが酒によく合う!」
「しかも、この酒!」
「酸味が脂を流してくれるではないか!」
家臣たちは顔を見合わせた。
「殿がここまで喜ばれるとは……。」
尚綱は穴の開いた盃へ酒を注ぎ、一気に飲み干す。
「くぅーっ!」
「もう一杯!」
「もう一切れ鴨を!」
家臣たちが苦笑する。
「殿、昼間から飲み過ぎです。」
「今日くらい構わぬ!」
尚綱は氏治を見つめ、大きく笑った。
「氏治。」
「はい。」
「お前、本当に今日が初めて宇都宮へ来たのか?」
氏治はきょとんとする。
「はい。」
「そうですけど……。」
尚綱は首を振った。
「信じられぬ。」
「私の好みの酒。」
「私の好きな鳥。」
「私が面白いと思う酒器。」
「どれも見事に私の好みではないか。」
しばらく黙ったあと、尚綱は優しく笑った。
「まるで何十年も付き合いのある友が、『お前ならこれが好きだろう』と酒を持って遊びに来たような気分だ。」
治彦は思わず氏治を見た。
氏治はただ照れくさそうに笑っている。
だが治彦だけは知っていた。
――この子には、誰も知らない四百年の記憶がある。
未来では、元服した氏治と尚綱は幾度となく酒を酌み交わした。
早く父を失った氏治にとって、尚綱は親族として支え、時に兄のように、時に父のように接してくれた存在だった。
その未来の記憶があるからこそ、この土産は選ばれたのだ。
尚綱は盃を掲げる。
「今日は祝いだ!」
「飲もう!」
「そして明日からは、武も政も、宇都宮のすべてを氏治へ教えてやる!」
「はい、おじ上様!」
氏治の返事に、宴の席は大きな笑い声で満たされた。
こうして青鬼と幼き氏治の、新たな春の日々が始まったのである。




