信濃屋の暖簾
堺で氏治と別れた水戸頼治、北畠、佐野昌綱は、街道を北上し、数日の後に京へ入った。
春の夕暮れ。
朱雀大路には旅人や商人が行き交い、寺の鐘が静かに都へ響いている。
「都か……。」
佐野は一度だけ町並みを見渡した。
坂東とは違う。
道は人で溢れ、武士よりも公家や僧、商人の姿が目立つ。
しかし今日は町を見て回るつもりはなかった。
出浦から教えられた宿へ向かう。
暖簾には大きく、
『信濃屋』
と染め抜かれていた。
佐野は暖簾をくぐる。
「ごめんください。」
奥から四十代ほどの女性が姿を現した。
穏やかな笑みを浮かべ、旅人を迎え慣れた所作で一礼する。
「ようこそ、信濃屋へ。」
「兵学館より参りました、佐野昌綱と申します。」
女将は一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかな笑顔へ戻った。
「お待ちしておりました、佐野様。」
「お部屋はご用意しております。」
佐野は深く一礼した。
「しばらく世話になります。」
「どうぞ、ごゆるりとなさってください。」
女将に案内され、二階の一室へ通される。
広くはない。
だが、掃除は隅々まで行き届き、畳には新しい香りが残っていた。
荷を下ろした佐野は障子を開ける。
夕闇に染まる京の町が静かに広がっていた。
「……今日はもう遅い。」
そう呟き、荷を解く。
京での務めは明日からである。
しばらくすると、女将がお茶を運んできた。
「何かご不自由はございませんか。」
「いや、大丈夫だ。」
佐野は湯呑を受け取り、ふと思い出したように尋ねる。
「ひとつ、お聞きしたい。」
「はい。」
「宿代はいかほどだ。」
女将は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「そのようなお気遣いは不要でございます。」
「ですが。」
「こちらは既にお話をいただいております。」
それ以上は何も言わない。
ただ穏やかに頭を下げ、
「佐野様は、どうぞ何なりとお申し付けください。」
とだけ答えた。
佐野は深く詮索しなかった。
氏治か、水戸か、それとも鹿島商館か。
誰が手配したのかは分からない。
だが、それを尋ねることは野暮であると感じた。
「……承知した。」
短く答えると、女将は静かに一礼し、部屋を後にした。
一人になった佐野は、軍扇を枕元へ置く。
壁には太刀を掛けた。
都では容易に抜くことはない。
それでも武士として、常に手の届くところへ置く。
障子の向こうからは、旅人たちの笑い声がかすかに聞こえてくる。
信濃屋。
信濃から来た商人たちが集い、中山道の噂が自然と流れ込む宿。
ここが今日から、佐野昌綱の京での住まいとなる。
そして、この静かな旅籠から、坂東と都を結ぶ新たな日々が始まろうとしていた。




