未完の教本の帰還
宮内庁からの特別貸与が正式に決まり、未完の教本は厳重な警備のもと、小田大学へと運び込まれた。
四百年以上の時を経て、教本は再び小田の地へ帰ってきたのである。
収蔵室には、治彦と亡霊となった氏治だけがいた。
「……帰ってきたな。」
氏治は静かに教本へ手を伸ばした。
「完成させられなかった教本じゃ。」
治彦は慎重に頁をめくる。
兵法、礼法、築城、政。
そこに並ぶ文字は見事なものだったが、不自然な余白も多い。
「何か隠している……。」
治彦は保存担当者から借りた赤外線照射装置を取り出した。
「試してみます。」
柔らかな赤い光が頁を照らす。
すると、何も書かれていなかった余白へ、ゆっくりと文字が浮かび始めた。
まるで植物の汁で書かれた秘密の文が姿を現すように。
そこには、ただ一行だけ記されていた。
――形にとらわれず、本質を見よ。
治彦と氏治は顔を見合わせた。
「モンケ殿……。」
氏治が呟いた、その瞬間だった。
腰に差した蜈蚣切りが高らかな音を響かせる。
――キィィン。
眩い光が刀身から溢れ、収蔵室を包み込む。
光の中から二人の人物が姿を現した。
鎧姿の武人。
八田知家。
そして束帯姿の公家。
八田朝久。
氏治は思わず膝をつく。
「知家公……朝久公……。」
知家は厳しい眼差しで氏治を見つめた。
「うつむくな。」
「我らの子ならば、胸を張れ。」
その一言に、氏治は息を呑む。
朝久も一歩前へ出る。
その視線は蜈蚣切りへ向けられていた。
「氏治。」
「お前は藤太の末裔。」
「ならば、その蜈蚣切りで坂東に蔓延る困難と罪悪を断ち切れ!」
その声が収蔵室に響き渡った瞬間だった。
床が黒く染まる。
無数の蜈蚣が地を埋め尽くし、四方八方から這い出してくる。
治彦は息を呑んだ。
「これは……!」
しかし朝久は微動だにしない。
静かに太刀を抜くと、一歩踏み出した。
「藤太公ならば、恐れはせぬ。」
白刃が閃く。
一太刀。
二太刀。
三太刀。
蜈蚣は次々と断ち斬られ、黒い霧となって消えていく。
最後の一匹が消えた瞬間――。
世界が大きく軋んだ。
ガラスが砕けるように空間へ無数の亀裂が走る。
収蔵室も、教本も、棚も、光の粒となって崩れ始めた。
「氏治公!」
治彦が叫ぶ。
氏治は蜈蚣切りを強く握り締めた。
「行くぞ、治彦!」
次の瞬間。
二人の身体は光に包まれ、奈落へ落ちるような浮遊感に襲われる。
風が唸る。
雲を突き抜ける。
眼下には、巨大な城郭が見えた。
幾重もの堀と高い石垣、堂々たる天守をいただく城。
「宇都宮城……。」
治彦が呟いた、その瞬間。
二人は眩い光の中へ吸い込まれ、戦国の大地へと降り立った。




