未完の教本
閲覧室に、静かな緊張が流れていた。
担当研究官は桐箱から一冊の革装丁の冊子を取り出し、ゆっくりと閲覧台へ置く。
「こちらも返書とともに保管されていたものです。」
治彦は白手袋をはめ、慎重に表紙へ視線を落とした。
そこには力強い筆で、こう記されていた。
『兵学館教本 草稿』
「草稿……。」
治彦が呟く。
氏治は目を閉じ、小さく頷いた。
「思い出した。」
「完成しておらぬ。」
冊子を開く。
最初の頁には、わずか数行だけ。
『兵学館教本草稿』
『未定』
『改むること前提とす』
担当研究官は首をかしげた。
「まだ構想段階だったのですね。」
氏治は静かに首を横へ振る。
「構想ではない。」
「始めてはいた。」
「だが……進まなかった。」
頁をめくる。
「農」
「治水」
「兵」
「医」
「交易」
「教育」
それぞれの見出しはある。
しかし本文は数行しかない。
余白には、
「宍戸と議す。」
「鹿島に問う。」
「真壁の実戦を待つ。」
「大掾帰国後に加筆。」
そんな走り書きばかりが並んでいた。
治彦は静かに微笑む。
「一人で書くつもりはなかったんですね。」
「そうだ。」
氏治は冊子を見つめたまま答えた。
「兵学館は余の学校ではない。」
「皆の学校だ。」
「ならば教本も、皆で作るべきだと思った。」
しかし、その願いは実現しなかった。
会議を開けば戦が起こる。
戦が終われば新たな城を築く。
城が落ち着けば飢饉への備え。
ようやく時間ができたと思えば、新たな外交が始まる。
冊子は、いつも机へ置かれたままだった。
氏治は苦笑した。
「今日は書こう。」
「来月にはまとめよう。」
「国が落ち着いたら続きを書こう。」
「……そう言い続けてしまった。」
担当研究官は最後の頁を開いた。
そこには、途中まで書かれた一文だけが残っていた。
『兵学館教本とは、学を……』
その先は、白紙だった。
墨を継ぎ足した跡だけが残り、筆はそこで止まっている。
治彦は白紙を見つめる。
「結局、一冊にもならなかった。」
氏治は静かに頷いた。
「兵学館は育った。」
「学生も増えた。」
「教官も揃った。」
「だが、皆で腰を据えて教本を編む時間だけは、最後まで作れなかった。」
閲覧室に沈黙が落ちる。
四百年前。
国造りは前へ進んだ。
兵学館も前へ進んだ。
しかし、その歩みを後世へ残す教本だけは、未完のまま時を止めてしまったのである。
治彦はそっと草稿を閉じた。
「だから、ここで終わっているんですね。」
氏治は穏やかに笑った。
「いや。」
「終わったのではない。」
「止まっているだけだ。」
「続きを書く者が現れれば、この教本は再び歩き始める。」
その白紙は、四百年もの間、誰かが次の一文字を書く日を待ち続けていた。




