最後の一条
研究室へ戻った治彦は、氏治が書き残せなかった一文を何度も見返していた。
『次に加えるべき条――国は、民より学び続けよ。』
短い。
しかし、その一文には四百年という歳月が凝縮されているように思えた。
「氏治さん。」
治彦は静かに尋ねる。
「どうして、この条文だけ書き加えなかったんですか。」
氏治は少し考え、苦笑した。
「加えなかったのではない。」
「加えられなかったのだ。」
「なぜです?」
氏治は窓の外を見つめた。
学生たちが講義を終え、笑いながら大学の中庭を歩いている。
「掟条とは、先人が後世へ命じるものではない。」
「後の時代が、自ら必要と認めて初めて加えるものだ。」
治彦は静かに頷く。
「だから、あなたは書かなかった。」
「いや。」
氏治は首を横に振る。
「書けば、それは私の時代の答えになる。」
「だが、この条は未来が答えを出さねば意味がない。」
その言葉に、治彦は目を閉じた。
「国は、民より学び続けよ。」
現代に生きる自分だからこそ、その意味が分かる気がした。
「民主主義……。」
氏治は穏やかに微笑む。
「私はその名を知らぬ。」
「だが、国とは民のためにある。」
「ならば国もまた、民から学ばねばならぬ。」
「それだけのことだ。」
その時、研究室の電話が鳴った。
治彦が受話器を取る。
「はい、小田大学歴史資料館です。」
しばらく話を聞いた後、表情が変わる。
「分かりました。」
受話器を置くと、氏治へ向き直った。
「宮内庁書陵部からです。」
「え?」
氏治も驚いた。
「来月、共同調査を行いたいそうです。」
「内容は?」
治彦は深く息を吸った。
「坂東藤原掟条と、宮中に残る鷹司家文書の照合です。」
氏治の表情が変わる。
「鷹司……。」
それは氏治の晩年、朝廷との橋渡しとなった公家の名である。
治彦は資料を見せる。
共同調査の候補文書には、見覚えのない題名が並んでいた。
『関東奏聞録』
『兵学館上覧記』
そして最後に、一通だけ赤字で記されている。
『小田氏治自筆 朝廷献上意見書』
氏治は言葉を失った。
「そんなものを書いた覚えは……。」
いや、と氏治はゆっくり首を振る。
断片的な記憶が蘇る。
兵学館を開き、坂東をまとめ、戦乱がようやく収まった頃。
確かに一度だけ、朝廷へ自らの理想を書き送ろうと筆を執ったことがあった。
だが、その内容だけは思い出せない。
治彦は静かに資料を閉じる。
「次の調査は京都です。」
氏治は窓の外を見上げ、小さく笑った。
「坂東の夢は、都まで届いていたということか。」
四百年の時を越えた歴史の旅は、ついに坂東を離れ、天皇と公家が待つ京へと舞台を移そうとしていた。




