宍戸の知恵
宍戸政繁は深々と頭を下げた。
「宍戸政繁、お初にお目通りいたします。」
氏治は嬉しそうに頷いた。
「政繁殿。」
「はい。」
「今度、お屋敷へ遊びに行ってもいいですか。」
思いもよらぬ申し出だった。
政繁は目を丸くする。
「私の屋敷へ……でございますか。」
「はい。」
「政繁殿は農業や漁業のことをよくご存じなのでしょう。」
「ぼく、お話を聞いてみたいんです。」
真壁幹久は思わず笑みをこぼした。
「若様、政繁殿の屋敷は城のように立派な館ではございませぬぞ。」
「農具や漁具ばかりかもしれませぬ。」
氏治は首を横に振る。
「だから行きたいんです。」
「お城にはないものが、きっと政繁殿のお屋敷にはあります。」
治彦も穏やかに口を添えた。
「若君は、人の知恵に何より興味をお持ちなのです。」
「ご迷惑でなければ、お招きいただけますか。」
政繁は照れたように頭を掻いた。
「このような粗末な屋敷でよろしければ。」
「ぜひお越しください。」
「約束ですよ。」
「はっ、お待ちしております。」
◇
数日後。
氏治は約束どおり、治彦と真壁幹久を伴って宍戸家を訪れた。
屋敷は質素だった。
門をくぐると、まず目に入るのは畑。
軒先には鍬や鋤が並び、大きな甕がいくつも置かれている。
縄には小魚が干され、庭の隅には味噌樽が並んでいた。
「若様、本当にお越しくださいましたか。」
政繁が深く一礼する。
氏治は庭を見回しながら目を輝かせた。
「すごい……。」
「お城とは全然違う。」
「これが政繁殿のお仕事なんですね。」
政繁は少し照れながら頷く。
「戦だけでは民は生きられませぬ。」
「田を知り、川を知り、魚を知ってこそ国は豊かになります。」
氏治は甕の前にしゃがみ込んだ。
「これは?」
「醤にございます。」
「魚や野菜を漬けたり、料理の味付けに使います。」
氏治は蓋を開けてもらい、香りを確かめた。
「いい香りですね。」
しばらく考え込んだあと、少し照れくさそうに笑う。
「昔読んだ本に書いてあったんですけど……。」
「本、ですか。」
「醤は、一度ゆっくり火にかけてから冷ますと、傷みにくくなるそうです。」
政繁の表情が変わる。
「火にかける……。」
「それと、魚を醤で煮てから保存すると、塩気が中まで染みて、もっと長持ちするって。」
「なるほど……。」
政繁は思わず甕を見つめた。
氏治はさらに庭の隅の粘土を指差した。
「この細かい粘土を少しだけ混ぜて、一晩置くと。」
「濁りや細かい塵がおりになって沈むそうです。」
「上だけを別の甕へ移せば、もっときれいな醤になるって。」
政繁は息を呑む。
「そのような方法が……。」
氏治は慌てて手を振った。
「本当にできるかは分かりません。」
「本で読んだだけですから。」
政繁は深く頷いた。
「若様。」
「必ず一つ一つ試してみます。」
「もし成功すれば、この醤は小田自慢の品になります。」
氏治は嬉しそうに笑った。
「はい!」
「ぼくもそう思います。」
そのとき、真壁幹久が庭へ籠を運んできた。
「若様、お持ちしました。」
籠の中では二羽の鴨が鳴いている。
「ガァ、ガァ。」
政繁は目を丸くした。
「これは……。」
氏治は籠を差し出す。
「政繁殿、お礼です。」
「つがいの鴨です。」
「遠くへ飛ばないように羽だけ少し整えてあります。」
「田んぼへ放してみてください。」
「虫を食べてくれるって、本で読みました。」
「卵も産みますし、子どもが増えたら、ほかの田んぼでも飼えるでしょう。」
政繁は鴨を抱き上げ、その温もりを感じながら静かに微笑んだ。
「害虫を食べ、食料にもなる……。」
「これは面白い。」
「試してみる価値がありますな。」
氏治は嬉しそうに頷く。
「政繁殿なら、きっともっと良い方法を考えてくれます。」
その言葉に、政繁は胸が熱くなった。
家中では土を舐める変人と笑われてきた。
だが、この幼い若君だけは違う。
知恵を笑わず、価値を認め、さらに育てようとしてくれる。
政繁は深々と頭を下げた。
「若様。」
「この宍戸政繁。」
「農も、漁も、食も。」
「知る限りのすべてを、小田のために尽くすことをお誓いいたします。」
氏治は満面の笑みで応えた。
「よろしくお願いします、政繁殿。」
こうして小田領では、一人の幼君と一人の変わり者の出会いから、新たな実りへの歩みが静かに始まったのである。




