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宍戸の知恵

宍戸政繁は深々と頭を下げた。


「宍戸政繁、お初にお目通りいたします。」


氏治は嬉しそうに頷いた。


「政繁殿。」


「はい。」


「今度、お屋敷へ遊びに行ってもいいですか。」


思いもよらぬ申し出だった。


政繁は目を丸くする。


「私の屋敷へ……でございますか。」


「はい。」


「政繁殿は農業や漁業のことをよくご存じなのでしょう。」


「ぼく、お話を聞いてみたいんです。」


真壁幹久は思わず笑みをこぼした。


「若様、政繁殿の屋敷は城のように立派な館ではございませぬぞ。」


「農具や漁具ばかりかもしれませぬ。」


氏治は首を横に振る。


「だから行きたいんです。」


「お城にはないものが、きっと政繁殿のお屋敷にはあります。」


治彦も穏やかに口を添えた。


「若君は、人の知恵に何より興味をお持ちなのです。」


「ご迷惑でなければ、お招きいただけますか。」


政繁は照れたように頭を掻いた。


「このような粗末な屋敷でよろしければ。」


「ぜひお越しください。」


「約束ですよ。」


「はっ、お待ちしております。」



数日後。


氏治は約束どおり、治彦と真壁幹久を伴って宍戸家を訪れた。


屋敷は質素だった。


門をくぐると、まず目に入るのは畑。


軒先には鍬や鋤が並び、大きな甕がいくつも置かれている。


縄には小魚が干され、庭の隅には味噌樽が並んでいた。


「若様、本当にお越しくださいましたか。」


政繁が深く一礼する。


氏治は庭を見回しながら目を輝かせた。


「すごい……。」


「お城とは全然違う。」


「これが政繁殿のお仕事なんですね。」


政繁は少し照れながら頷く。


「戦だけでは民は生きられませぬ。」


「田を知り、川を知り、魚を知ってこそ国は豊かになります。」


氏治は甕の前にしゃがみ込んだ。


「これは?」


ひしおにございます。」


「魚や野菜を漬けたり、料理の味付けに使います。」


氏治は蓋を開けてもらい、香りを確かめた。


「いい香りですね。」


しばらく考え込んだあと、少し照れくさそうに笑う。


「昔読んだ本に書いてあったんですけど……。」


「本、ですか。」


「醤は、一度ゆっくり火にかけてから冷ますと、傷みにくくなるそうです。」


政繁の表情が変わる。


「火にかける……。」


「それと、魚を醤で煮てから保存すると、塩気が中まで染みて、もっと長持ちするって。」


「なるほど……。」


政繁は思わず甕を見つめた。


氏治はさらに庭の隅の粘土を指差した。


「この細かい粘土を少しだけ混ぜて、一晩置くと。」


「濁りや細かい塵がおりになって沈むそうです。」


「上だけを別の甕へ移せば、もっときれいな醤になるって。」


政繁は息を呑む。


「そのような方法が……。」


氏治は慌てて手を振った。


「本当にできるかは分かりません。」


「本で読んだだけですから。」


政繁は深く頷いた。


「若様。」


「必ず一つ一つ試してみます。」


「もし成功すれば、この醤は小田自慢の品になります。」


氏治は嬉しそうに笑った。


「はい!」


「ぼくもそう思います。」


そのとき、真壁幹久が庭へ籠を運んできた。


「若様、お持ちしました。」


籠の中では二羽の鴨が鳴いている。


「ガァ、ガァ。」


政繁は目を丸くした。


「これは……。」


氏治は籠を差し出す。


「政繁殿、お礼です。」


「つがいの鴨です。」


「遠くへ飛ばないように羽だけ少し整えてあります。」


「田んぼへ放してみてください。」


「虫を食べてくれるって、本で読みました。」


「卵も産みますし、子どもが増えたら、ほかの田んぼでも飼えるでしょう。」


政繁は鴨を抱き上げ、その温もりを感じながら静かに微笑んだ。


「害虫を食べ、食料にもなる……。」


「これは面白い。」


「試してみる価値がありますな。」


氏治は嬉しそうに頷く。


「政繁殿なら、きっともっと良い方法を考えてくれます。」


その言葉に、政繁は胸が熱くなった。


家中では土を舐める変人と笑われてきた。


だが、この幼い若君だけは違う。


知恵を笑わず、価値を認め、さらに育てようとしてくれる。


政繁は深々と頭を下げた。


「若様。」


「この宍戸政繁。」


「農も、漁も、食も。」


「知る限りのすべてを、小田のために尽くすことをお誓いいたします。」


氏治は満面の笑みで応えた。


「よろしくお願いします、政繁殿。」


こうして小田領では、一人の幼君と一人の変わり者の出会いから、新たな実りへの歩みが静かに始まったのである。

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