山が動くとき ―梅雨の来訪―
東北にも梅雨が訪れた。
朝から霧雨が背炙山を包み、尾根は白く霞む。雨粒は若葉を打ち、沢は雪解け水を集めて勢いを増していた。
二か月。
館林はこの山で息を潜め続けた。
黒川城へ続く街道を毎日見張り、荷駄の数、人馬の往来、使者の行き先を記した。
山へ戻れば、背炙山の尾根という尾根、沢という沢を歩き尽くす。
洞穴、山伏の庵、湧き水、獣道、見張りに適した岩場。
すべてを紙へ写し取り、誰よりも詳しい背炙山の地図を作り上げていた。
夜には市中へ下りる。
結城朝基が商人や旅人に紛れて集めた噂を書き写す。
城兵の配置。
番の交代刻。
門の開閉。
武具蔵や兵糧蔵。
侍大将の屋敷。
その一つひとつを地図へ落とし込み、黒川城は紙の上にもう一つ築かれていた。
その日の昼であった。
枝に止まっていた標が、突然羽を大きく広げた。
鋭く鳴き、低く旋回する。
普段は静かな標が、明らかに警戒している。
「どうした。」
館林が目を細める。
標は山腹の一角へ飛び、何度も同じ場所を旋回した。
館林は風下を選び、音もなく近づく。
やがて木々の隙間から、一人の武者が見えた。
背が高い。
肩幅も広い。
雨をものともせず洞穴へ入り、しばらくすると鎧や陣笠を抱えて出てくる。
また洞穴へ戻る。
その繰り返しだった。
館林は男が去るのを待ち、洞穴へ入る。
中には蘆名の陣笠、鎧、槍、刀が几帳面に積み上げられていた。
泥は払われ、壊れたものと使えるものまで分けられている。
敵の武具を回収し、再利用するための集積所だった。
館林は足跡を見た。
濡れた岩を選ぶ歩き方。
枝を不用意に払わぬ癖。
山を知る者の足運び。
兵学館で叩き込まれた歩法そのものだった。
そして、あの大柄な体躯。
館林は静かに頷く。
「……那須資忠殿。」
味方である。
だが、この場で姿を見せるわけにはいかなかった。
山中では敵味方の判別は難しい。
不用意に動けば、互いに誤って射かねない。
館林は懐から二つの木彫りを取り出した。
二か月の潜伏の間、雨宿りをした洞穴や山伏の庵で削り続けたものだった。
掌に収まるほどの、小さな亀。
そして、小さな虎。
洞穴の入口脇の平たい岩へ、二つを静かに並べる。
兵学館の仲間ならば、それだけで誰かが先にいることに気づくだろう。
館林は一度だけ標を見上げると、踵を返した。
「朝基殿に知らせねば。」
霧雨の中、山を知り尽くした男の姿は、再び背炙山の木々へ溶け込んでいった。




