山を住まいとする者 ― 背炙山潜伏 ―
春の風が会津の山々を撫で始めていた。
雪は尾根筋にわずかに残るばかりとなり、沢には雪解け水が勢いよく流れ、木々は薄く芽吹き始めている。
大内宿では結城兄弟との評議が終わり、それぞれの役目が定まった。
結城朝綱は兵を率いて大内宿に残り、兵の軍規を保ち、補給を整える。
結城朝基は商人や旅人に姿を変え、黒川の町へ潜り込む。
そして館林は、一人と一羽で背炙山へ入った。
「では行ってくる。」
朝綱は静かに頷く。
「ご武運を。」
朝基は笑みを浮かべた。
「しるべ殿も、お気をつけて。」
しるべは翼を広げ、一声高く鳴いて空へ舞い上がった。
館林も振り返ることなく山道へ足を踏み入れる。
背炙山は静かな山だった。
街道から少し入るだけで、人の声は消え、聞こえるのは沢のせせらぎと鳥のさえずりだけになる。
館林は小屋を建てようとはしなかった。
拠点を築けば煙が立つ。
踏み跡は人を呼び、焚き火の灰は敵の目となる。
潜むならば、山そのものにならねばならない。
それが館林の考えだった。
彼は歩いた。
尾根を越え、谷へ下り、獣道をたどり、また尾根へ登る。
涸れることのない泉を探し当てる。
雨でも濁らぬ沢を覚える。
風を避けられる岩陰を見つける。
夜露をしのげる倒木の根元を確かめる。
見晴らしの利く尾根では腹這いになり、鴫山城へ続く街道をじっと眺めた。
兵はいつ交代するのか。
荷馬は何日に一度通るのか。
見張りはどこで立ち止まるのか。
朝には陽の差す向き。
夕には谷を抜ける風。
夜には星の巡り。
館林は一つ一つを身体へ刻み込んでいく。
寝床は毎日変えた。
昨日は沢沿い。
今日は尾根。
明日は岩陰。
同じ場所で夜を明かすことは一度もない。
だから誰にも見つからない。
敵にも。
そして味方にも。
一方、しるべは空を自由に舞っていた。
沢へ舞い降りて水を飲み、野兎を見つければ音もなく急降下する。
腹を満たすと再び高く舞い上がり、館林のいる尾根へ戻ってくる。
背炙山そのものが、しるべにとっては巣であり、狩り場であり、食堂でもあった。
館林はそんな姿を見上げ、ふっと笑う。
「お前には、この山全部が家みたいなものだな。」
しるべは短く鳴き、風へ乗って再び谷を越えていく。
館林も、この山を嫌いではなかった。
黒川にほど近く、それでいて人の気配は少ない。
夜になれば満天の星が空を覆い、遠く城下の灯だけが小さく揺れる。
静寂に包まれたこの山は、心を落ち着かせてくれた。
だが、ときおり南へ目を向ける。
その先には大内宿がある。
囲炉裏を囲み、赤井が語ってくれた昔話。
宿場を歩く人々の笑顔。
夕暮れに立ちのぼる炊事の煙。
束の間ではあったが、戦を忘れられる温かな時間だった。
「……もう少し、あそこにいたかったな。」
思わず漏れた独り言は、春風にさらわれていく。
しるべが静かに館林の肩へ舞い降りた。
館林はその羽を優しく撫でる。
「だが、それでは役目は果たせぬ。」
そう言うと再び立ち上がり、誰も知らぬ獣道へ足を向けた。
こうして館林は拠点を持たず、山そのものを住まいとし、背炙山の泉も沢も尾根も谷も、自らの庭のように知り尽くしていった。
やがて夜明け、那須隊が背炙山へ足を踏み入れる頃。
味方でさえ、その姿を見つけることはできない。
館林はすでに山と一つになり、静かに会津への道を見守っていたのである。




