童の一言
数日後。
武蔵より早馬が小田城へ駆け込んだ。
「ご注進!」
評定の間へ駆け込んだ使者は、息を切らせながら叫ぶ。
「川越にて合戦!」
「北条勢、夜陰に紛れて上杉本陣へ奇襲を敢行!」
広間がどよめく。
「何だと!」
「夜襲だと……!」
使者は続けた。
「上杉方は大混乱!」
「北条勢は寡兵ながら各陣を撃破!」
「戦況は北条優勢!」
宿老たちは顔を見合わせた。
「馬鹿な……。」
「数千で数万を……。」
当主は静かに目を閉じる。
そして、ふと評定の日を思い出した。
『大きなお侍さんは、夜になると安心して眠ってしまうのでしょうか。』
『小さなお侍さんが夜に急いで来たら……。』
幼い氏治の言葉だった。
当時は童の空想と思って笑い話になった。
しかし、父だけは違った。
「……念のため。」
そう考え、出陣する家臣たちへ密かに命じていた。
「夜営の警戒を怠るな。」
「退路は昼のうちに必ず確認せよ。」
「夜襲を受けても、慌てて潰走するな。」
家臣たちは半信半疑だった。
それでも当主の命として徹底した。
その備えが、小田勢を救った。
夜襲の混乱が広がる中でも、小田勢は狼狽せず、定めていた退路へ秩序立って後退した。
戦そのものの勝敗は変わらない。
北条氏の大勝。
それは歴史のままだった。
しかし、小田勢は壊滅を免れた。
戦後。
一人の宿老が静かに口を開く。
「若様のお言葉……。」
別の重臣も頷く。
「まさか、本当に夜襲になるとは。」
父は庭で木剣を振る幼い氏治を遠くから見つめた。
あの日と変わらぬ無邪気な姿。
だが、その幼子の背には、不思議な大きさを感じずにはいられなかった。
「……あれは偶然か。」
誰も答えられない。
庭では氏治が木剣を振り終え、こちらへ笑顔を向ける。
「父上!」
その笑顔は、どこまでも幼い。
しかし、その瞳の奥だけは――
治彦にだけ分かる。
亡霊氏治が静かに微笑んでいた。




