幼君の予見
評定の間には、重い空気が流れていた。
上座には当主である父が座り、その左右には宿老たちが並ぶ。
治彦は教育指南役として末席に控え、その隣には幼い氏治が正座していた。
「さて。」
父が口を開く。
「武蔵では、いよいよ川越城を巡る決戦となる。」
一人の重臣が地図を広げた。
「上杉方は八万とも申します。」
「対する北条勢は、わずか数千。」
別の宿老も頷く。
「兵力差は歴然。」
「北条氏康も、もはや打つ手はございますまい。」
「この一戦で武蔵の趨勢は決しましょう。」
「上杉方の勝利は動かぬかと。」
評定の間には異論はなかった。
誰もが、大軍を擁する上杉方の勝利を疑っていない。
父も静かに頷く。
「我らは戦の推移を見守り、常陸の備えを怠らぬことだ。」
評定はまとまりかけた。
その時だった。
「父上。」
幼い氏治が、おずおずと手を挙げた。
家臣たちが一斉に視線を向ける。
父は少し驚きながらも優しく言う。
「どうした、氏治。」
氏治は少し考えるように俯き、小さく頭を下げた。
「父上や皆様のご武運をお祈りいたします。」
その健気な言葉に、重臣たちの表情も和らぐ。
「ありがとうございます。」
氏治は続けた。
「でも……。」
「大きなお侍さんは、夜になると安心して眠ってしまうのでしょうか。」
評定の間が静まり返る。
「もし、小さなお侍さんが夜に急いで来たら……。」
「びっくりしてしまうかもしれません。」
家臣の一人が思わず笑った。
「ははは。」
「若様らしいお考えですな。」
「そのような無茶をする者はおりますまい。」
別の宿老も頷く。
「まして数千で数万へ挑むなど、自殺行為。」
「北条もそこまで愚かではありますまい。」
氏治は素直に頭を下げた。
「そうですね。」
「子供の考えでした。」
そう言って黙り込む。
しかし、その横顔を見た治彦だけは気付いていた。
――違う。
あれは子供の思いつきではない。
史実を知る亡霊氏治が、遠回しに北条の夜襲を示唆したのだ。
だが、誰も信じない。
この場では、それでよかった。
未来を変えることが目的ではない。
まずは歴史を見届けること。
亡霊氏治は、静かに評定の続きを見つめていた。




