秋風に咲く笑顔
氏治は、北浦で過ごす秋の日々、黄梅院から贈られた言葉を胸に刻んでいた。
――まずは、正室である早川殿を大切になさってください。
その言葉どおり、氏治はまず早川殿と過ごす時間を大切にした。
朝の散策。
庭園での語らい。
町への外出。
温泉の足湯で並んで腰を掛けるひととき。
評定や戦場では決して見せることのない穏やかな笑顔が、氏治には戻っていた。
早川殿は、北条氏康の娘であり、小田・北条両家を結ぶ三国同盟の証でもある。
その立場は決して軽くない。
しかし、氏治の前にいる彼女は、そのような重責を感じさせることはなかった。
可憐で、柔和な美姫。
誰にでも分け隔てなく笑いかけ、小さな出来事にも心から喜ぶ。
市場では珍しい菓子を見つけて目を輝かせ、湖畔では飛び立つ水鳥を見て嬉しそうに声を上げる。
その天真爛漫な姿は、鎌倉で初めて出会った頃から少しも変わっていなかった。
氏治は、そんな笑顔を見ているだけで心が軽くなるのを感じていた。
「殿。」
「今日は風が気持ち良いですね。」
その一言だけで、自然と歩みも軽くなる。
戦のことを忘れられる。
政のことを忘れられる。
そして、また頑張ろうと思える。
氏治はようやく気づいた。
自分を支えていたのは、決して忠臣たちだけではない。
帰る場所があり、待っていてくれる人がいる。
その安心こそが、再び前へ進む力になっていた。
早川殿は、氏治にとって守るべき存在であると同時に、明日へ歩き出す原動力でもあった。
その様子を少し離れた縁側から見つめる黄梅院は、静かに微笑む。
「やはり……それでよろしいのです。」
香炉から立ち上る香を眺めながら、小さく呟く。
「早川殿が笑っておられれば、殿も笑っておられる。」
それが黄梅院にとっても何より嬉しいことであった。
こうして北浦の秋は、三人それぞれの穏やかな時間を育みながら、ゆっくりと深まっていった。




