静かなよる
別館で過ごす時間は、本館とは違う静けさに包まれていた。
書を読み、香を焚き、庭を眺めながら季節の移ろいを語る。
言葉は少なくとも、不思議と沈黙が苦にならない。
氏治は黄梅院と会う機会こそあったものの、評定や祭礼、法要の折に言葉を交わす程度で、こうして二人だけでゆっくり過ごす時間は久しぶりだった。
黄梅院もまた穏やかに微笑む。
「ようやく、お話ができますね。」
その笑顔を見て、氏治はふと昔を思い出した。
初めて出会った頃の黄梅院は、父・晴信を失った悲しみを胸の奥に抱え、どこか陰を帯びた表情をしていた。
静かで、美しく、それでいて近寄りがたい空気をまとっていた。
しかし今、目の前にいる黄梅院には、その影はなかった。
知性を宿した吸い込まれるような瞳は変わらない。
書を愛し、香を楽しみ、静かな時間を好む気質も変わらない。
だが、その瞳には穏やかな光が宿り、自然な笑みが浮かぶようになっていた。
氏治は静かに言う。
「変わったな。」
黄梅院は少し首を傾げる。
「そうでしょうか。」
「ああ。」
「昔は……どこか無理に笑っているように見えた。」
黄梅院はしばらく庭を眺めていた。
やがて小さく微笑む。
「父を亡くした頃は、何を信じてよいのか分かりませんでした。」
「けれど殿は、約束したことを一つずつ守ってくださいました。」
敵も味方も分け隔てなく弔い、武田の家臣たちにも居場所を与え、晴信の名誉も守った。
その姿を見続けるうちに、黄梅院の心から少しずつ悲しみは薄れていった。
「気づけば……。」
黄梅院は氏治をまっすぐ見つめる。
「一人の人として、殿をお慕いするようになっておりました。」
「そして、頼りにしております。」
氏治は少し照れたように笑う。
「私も、まだまだ未熟だ。」
「ですが。」
黄梅院は静かに首を振る。
「わたくしにとっては、もう十分に頼れるお方です。」
夜も更け、庭には月明かりが降り注いでいた。
昼間と同じ穏やかな空気の中で、黄梅院はそっと立ち上がる。
「殿。」
その声は柔らかく、それでいてどこか決意を秘めていた。
彼女は静かに氏治へ手を差し伸べる。
「今夜は、どうか何もお考えにならず。」
「わたくしに、お任せください。」
氏治はその手を見つめ、ゆっくりと握り返す。
二人は言葉を交わすことなく、静かな部屋の奥へと歩みを進めた。
障子の外では風が竹を揺らし、香のかすかな香りが月夜に溶けていく。
こうして二人は、ようやく夫婦として互いの心を重ね、新たな一歩を静かに踏み出した。
別館には、夜更けまで穏やかな灯だけがともっていた。




