北浦迎賓館 ― 本館と別館
北浦迎賓館での暮らしは、氏治にとって久方ぶりの静かな時間だった。
朝は湖畔を歩き、昼は庭を眺め、夕暮れには縁側で早川殿と他愛もない話をする。
評定もなければ軍議もない。
戦の報も、急使の足音も聞こえない。
そんな日々を重ねるうち、氏治の表情からはいつしか張り詰めたものが消えていった。
早川殿はそんな変化を嬉しそうに見つめていた。
十九歳となった彼女は、幼さの残る愛らしい面差しをそのままに、立ち居振る舞いには正室としての落ち着きが備わっていた。
茶を点てる姿。
客人を迎える所作。
静かに本を読む横顔。
どれもが大人の女性としての気品を漂わせている。
それでも、庭先に珍しい鳥を見つければ目を輝かせ、季節の花が咲けば嬉しそうに氏治の袖を引く。
「殿、ご覧ください。」
その明るい笑顔だけは、鎌倉で初めて出会った頃と少しも変わっていなかった。
氏治は思わず笑う。
「変わったようで、変わらぬな。」
早川殿も照れくさそうに笑った。
「それは良い意味でございますか。」
「ああ。」
「その笑顔を見ると安心する。」
その一言に、早川殿は少しだけ頬を染め、静かに目を伏せた。
夜になると、庭には虫の音だけが響いていた。
縁側に並んで座り、二人は月を眺める。
「待たせてしまった。」
氏治がぽつりと漏らす。
「会うことはできても、夫婦として時を過ごすことができなかった。」
早川殿は穏やかに首を振る。
「わたくしも同じでございます。」
「殿が国のために歩んでおられることを知っておりましたから。」
しばらく沈黙が続く。
やがて早川殿は氏治の手に、そっと自分の手を重ねた。
「今日は、どこへも行かれませんね。」
氏治は小さく頷く。
「ああ。」
「今日は、お前といる。」
その夜、二人はようやく夫婦として静かな時間を分かち合った。
幼くして結ばれ、戦と政に追われ続けた歳月を越え、互いの想いを確かめ合いながら、北浦の穏やかな夜は静かに更けていった。
翌朝。
北浦には澄み渡る青空が広がっていた。
氏治は庭を散策しながら、池の向こうに建つもう一つの迎賓館へ目を向ける。
本館とは異なり、別館は落ち着いた佇まいだった。
木立に囲まれ、池へせり出した回廊。
書や香を楽しむための静かな空間が広がっている。
「まだ、あちらは見ていなかったな。」
氏治は庭園を横切り、別館へ足を運んだ。
廊下には静かな香が漂い、本館とは違う穏やかな空気が流れている。
襖の向こうから、紙をめくる小さな音が聞こえた。
氏治が静かに襖を開く。
窓から差し込む柔らかな陽光の中、一人の女性が書を閉じて顔を上げた。
「……殿。」
黄梅院だった。
その静かな微笑みに、氏治は足を止める。
二つ目の迎賓館での、新たな時間が始まろうとしていた。




