上泉、最後の課題
夏の終わり。
道場へ吹き込む風にも、どこか秋の気配が混じり始めていた。
上泉は木刀を納めると、氏治を静かに見つめた。
「氏治。」
「最後に、一つだけ課題を残していく。」
氏治は姿勢を正し、深く頭を下げる。
上泉はゆっくりと言葉を選んだ。
「守を学んだ。」
「破も教えた。」
「では、離とは何だ。」
氏治は考えた末、静かに答えた。
「……刀からも離れること、でしょうか。」
上泉は何も答えず、おもむろに木剣を床へ置いた。
「斬ってみよ。」
氏治は木刀を握り、一歩踏み込む。
渾身の一太刀。
上泉は受けるように見せながら、紙一重で身をかわした。
次の瞬間には懐へ入り、手刀が氏治の首筋でぴたりと止まる。
氏治は息を呑んだ。
上泉はそのまま静かに手を下ろす。
「……いや。」
珍しく渋い表情を浮かべる。
「これも違う。」
しばらく木剣を見つめ、ぽつりと言った。
「戦う前に決すること。」
「それができれば、戦わずに済む。」
「戦うことは上策にあらず。」
上泉は小さく笑う。
「もっとも、これはわしの言葉ではない。」
「昔より賢人たちが語ってきた教えよ。」
静かな沈黙が流れる。
やがて上泉は氏治へ向き直った。
「勘違いするでない。」
「おぬしがわしに学んだのは、たった二年。」
「ようやく守の入り口へ立ったにすぎぬ。」
氏治は黙って頷いた。
「わしは、おぬしに破を教えた。」
「じゃが、まだ破る時ではない。」
上泉の声は穏やかだった。
「これから先は守を学べ。」
「巡も、揺も、裏も、自由形も。」
「すべて守の中にある。」
「いずれ時が来たら、破れ。」
「守を極めた先で、己の兵法として破ればよい。」
そして、一言ずつ言い聞かせるように続けた。
「時が来る前に破ろうとすれば、壊れる。」
「形ではない。」
「己が壊れる。」
氏治は深く一礼した。
上泉はその姿を見届け、穏やかに微笑む。
「離とは何か。」
「わしも、まだ答えを探しておる。」
「だから、これがおぬしへの最後の課題だ。」
道場の外では、夏の風が竹を揺らしていた。
「もし答えを見つけたなら――」
上泉は空を見上げ、どこか楽しげに笑った。
「その時は、地獄で教えてくれ。」
その問いは、師から弟子へ託された最後の教えであり、一生をかけて解くべき宿題となった。




