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揺へ還る

もう夏だった。

青々とした木々が兵学館を包み、蝉の声が朝から絶え間なく響いている。

上泉の旅立ちも、いよいよ近づいていた。

それでも、不思議なことに今年は野分が来ない。

空は穏やかで、風は静かだった。

誰かが「今年は夏が長うございますな」と漏らすほど、日が少しだけ長く感じられた。

氏治はその一日一日を惜しむように道場へ通った。

あの日から稽古は変わらない。

まず自由形。

互いに思うまま仕掛け、返し、崩し、誘う。

決まった順も、決まった答えもない。

ただ、その瞬間に最善を選び続ける。

そして稽古の終わりだけは変わらなかった。

最後に巡。

表を丁寧に。

続いて裏を丁寧に。

まるで最初の日へ帰るように、一つ一つ確かめながら木刀を交える。

そんな日々が続いていた。

ある日の夕暮れ。

自由形の最中だった。

木刀が触れ合い、離れ、再び交わる。

上泉がふいに口を開く。

「氏治。」

一合の最中だった。

「揺を覚えておるか。」

氏治は言葉を返さない。

ただ、小さく頷いた。

その瞬間だった。

上泉の太刀がわずかに間を空ける。

自由形のはずだった。

好きに攻めてよい。

好きに返してよい。

氏治は自然とその太刀を受けようとした。

――その時。

気づけば足が動いていた。

上段の受け。

そこから切り返し。

巡。

考えていない。

それでも身体がそう動く。

上泉は何も言わず、その巡へ応じる。

さらに一太刀。

氏治もまた巡で返す。

いつの間にか二人は自由形ではなく、巡を打ち合っていた。

氏治ははっとする。

(誘われた……。)

自由に動いていたはずなのに。

好きに選んだはずなのに。

気づけば揺へ導かれ、揺から巡へ入っていた。

自由の中で、自然に形へ還っていたのである。

木刀を止めた上泉は静かに笑った。

「分かったか。」

氏治は息を整えながら頷く。

「……はい。」

上泉は木刀の切っ先をゆっくり下ろす。

「形とは。」

「人を縛るものではない。」

「人を還すものよ。」

「迷えば形へ還る。」

「形へ還れば、また自由へ出られる。」

氏治はその言葉を聞きながら、初めて揺の意味を理解した。

揺は一つの技ではなかった。

自由と巡を結ぶ橋だった。

だからこそ上泉は、最初に揺を見せたのだ。

氏治がいつか迷った時、必ず帰る場所として。

道場の外では、夏の風が静かに竹を揺らしていた。

その音だけが、師弟二人の間をゆっくりと流れていった。

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