自由形
春が過ぎ、梅雨が兵学館を包んだ。
裏の稽古は、もはや決まった順を持たない。
氏治が自ら機を見て仕掛ける。
上泉はそれを返す。
返された氏治はさらに応じる。
打ち込み、返し、崩し、誘い。
一つとして同じ立ち合いはなかった。
その日も稽古が終わろうとした時だった。
上泉が木刀を下ろし、静かに言う。
「少し早いが……。」
氏治は顔を上げる。
「本来なら、まだ先に教えるものだ。」
「じゃが、おぬしに残された時間は多くない。」
氏治が上泉に学べるのも、あと半年。
上泉はそれを誰より知っていた。
「今日は次へ進む。」
氏治は静かに構え直す。
上泉は続けた。
「これまでは、巡、裏、それぞれを学んできた。」
「これからは違う。」
「組み合わせよ。」
「思うまま仕掛け、思うまま返してみよ。」
氏治は戸惑う。
「形は……ございませぬか。」
上泉は笑った。
「ある。」
「だが、もう教えぬ。」
「おぬしが作れ。」
氏治はゆっくりと動き始めた。
右払いから入り、その流れで上段へ。
誘って下段へ落とす。
さらに裏で学んだ崩しを混ぜる。
一太刀ごとに考え、一太刀ごとに選ぶ。
上泉は静かに応じた。
受け。
返し。
誘い。
崩し。
どちらも急がない。
互いに相手の考えを読み、その場で答えを作っていく。
しばらくすると、上泉が言った。
「では、少しずつ速くする。」
木刀が一合ごとに速くなる。
考える時間は短くなり、選ぶ時間は消えていく。
それでも氏治は、自ら組み合わせた剣で応じ続けた。
稽古が終わると、上泉は木刀を納める。
「これを、自由形という。」
氏治は息を整えながら道場を見渡した。
巡もない。
裏もない。
決められた順もない。
あるのは、これまで学んだすべてを、その場で組み合わせるだけ。
形を守る稽古ではなく、形を使いこなす稽古。
上泉は静かに頷く。
「兵法とは、教わった技を使うことではない。」
「教わったものを、自分の剣として生み出すことだ。」
その日から始まった自由形は、名こそ"形"であったが、二人にはよく分かっていた。
それは、もはや形ではなかった。




