春、順を変えよ
冬が過ぎた。
兵学館の庭に植えられた梅が散り、やがて桜がほころび始める。
氏治が上泉に学べる日々も、残すところ半年となっていた。
朝の稽古は変わらない。
まずは裏。
氏治が仕掛ける。
上泉は返す。
攻めれば崩され、誘えば誘い返される。
木刀の音だけが春の澄んだ空へ響く。
裏の稽古が終わると、一息入れることもなく最後は表で締める。
巡。
巡。
巡。
ただし、それはもう最初に教わった巡ではなかった。
裏を知った氏治には、一つ一つの形の中に隠された誘いと崩しが見えるようになっていた。
表は表ではない。
裏を知る者だけが理解できる表だった。
そんな春の日。
稽古を終えようとした氏治へ、上泉は静かに言った。
「……もう、春か。」
木刀を納めながら、氏治は頷く。
「はい。」
上泉は氏治をまっすぐ見つめた。
「ならば。」
わずかな間があく。
「順を変えよ。」
氏治は息を呑んだ。
「今までは、わしの順で動いておった。」
「これからは、おぬしが巡らせよ。」
「わしは、それに応じる。」
氏治は静かに構える。
これまでのように上段から始めようとして、止めた。
右払い。
そのまま下段。
一歩詰めて左払い。
引くと見せて上段。
自ら考え、自ら順を組み立てる。
上泉はすべて受ける。
迷いがあれば、そこを打つ。
流れが生まれれば、その流れをさらに大きくする。
氏治はようやく気づいた。
順とは覚えるものではない。
生み出すものなのだ。
稽古が終わると、上泉は満足そうに頷いた。
「ようやく、わしの真似を卒業できる。」
「これからは、おぬしの兵法を作れ。」
春風が道場を吹き抜け、散った桜の花びらが二人の足元へ静かに舞い落ちた。




