動かぬ剣
裏の稽古は、なおも続いた。
氏治が仕掛ければ返される。
誘えば誘い返される。
攻めたつもりが、いつの間にか攻められている。
何度打たれたかも分からない。
肩や腕には青あざが増え、手のひらには木刀の柄が食い込んで固い皮が幾重にも重なっていた。
そして数日後。
上泉は何事もなかったように言った。
「……表へ戻る。」
再び巡の稽古が始まる。
上段。
下段。
左右の払い。
そのはずだった。
しかし、氏治には以前とは違って見えた。
「……。」
上段と見せた瞬間、腰の入り方が違う。
下段へ誘っている。
左へ払う前に、わずかに右足へ重心が残っている。
その微かな違いが見えるようになっていた。
氏治は受ける前に動いた。
木刀がぶつかる。
今までよりも軽い音だった。
上泉は何も言わない。
ただ、もう一度打ち込んでくる。
氏治はまた応じる。
速い。
だが、不思議と慌てなくなっていた。
裏を知ったことで、表に隠された機微が見えるようになっていたのである。
稽古が終わる頃。
氏治は木刀を下ろし、上泉をじっと見つめた。
汗ひとつ流さぬような静かな構え。
その姿を見て、ふと違和感を覚える。
(……動いていない。)
いや、正しくは違う。
動いているのは、いつも自分だった。
上泉は大きく踏み込まない。
無理に追わない。
無理に押さない。
ただ、そこにいる。
氏治が前へ出れば、その前進を使う。
下がれば、その後退を追わずに詰める。
迷えば、その迷いを待つ。
焦れば、その焦りへ木刀が届く。
気づけば、氏治は自分の意思で動いているつもりで、すべて上泉の望む場所へ導かれていた。
氏治は思わず息を呑む。
「……先生は、動いておられぬ。」
上泉は初めて目を細めた。
「ようやく見えたか。」
静かな声だった。
「兵法とは、己が動くことではない。」
「相手を動かすことよ。」
氏治はその言葉を胸の内で何度も繰り返した。
勝つ者は速く動く者ではない。
力のある者でもない。
相手に、自ら負ける道を歩ませる者なのだ。
その日、氏治は初めて、上泉が剣ではなく「人」を相手に戦っていることを理解した。




